清凉院 | お亀の方 ゆかりの静かな尼寺

清涼院

清凉院(せいりょういん)は通常非公開の尼寺です。「京都浄土宗寺院特別大公開」の期間のみ公開されます。

かつて、この場所には徳川家康の側室・お亀の方(おかめのかた)の屋敷がありました。この地で後の尾張徳川家の祖である徳川義直を出産し、阿弥陀如来への信仰を深められたようです。

現在は、阿弥陀如来を本尊とした本堂、福壽観音菩薩のお堂、秋葉山大権現を祀るお堂があり、お亀の方や五郎太に関連する文化財を保管されています。

お亀の方のプロフィールやアクセス方法をまとめました。

基本情報

至心山 清凉院(浄土宗知恩院派)
京都市伏見区深草大亀谷五郎太町31
TEL.075-601-4137
※通常非公開
京都浄土宗寺院特別大公開

【1】お亀の方とは?

徳川家康が50~60歳の頃に寵愛した側室三人衆の1人で、健康的&豊満なスタイルが魅力の女性だったようです。

かつて現在の清凉院の場所には、お亀の方のお屋敷があり、徳川家康の九男、尾張藩初代藩主・徳川義直(幼名:五郎太)はここで誕生しました。

お亀の方が五郎太を懐妊された際には、三国伝来の福壽観音様に祈願されたと伝わります。五郎太の誕生後、お亀の方は徳川家の永代繁栄を祈祷するため一尺八寸の阿弥陀仏を造り、自分の守本尊(一寸八分の恵心作の阿弥陀如来)を、その胎内に納め本尊としました。(清凉院蔵)

清涼院
▲徳川家 三つ葉葵の紋
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▲お亀の方像(清凉院蔵), パブリック・ドメイン, Link

・お亀の方は力持ち元気女子!?

徳川家康との出会いの伝承はちょっと面白いです。

徳川家康とお亀の方
お亀の方は正法寺の大檀那であった志水家の出身。徳川家康の側室となり、徳川御三家の一つ、尾張藩の祖となる徳川義直を産みました。その後、お亀の方は出家して相応院となり、正法寺が相応院の菩提寺となったことで、近世を通して尾張藩の厚い庇護を受けました。

お亀の方が徳川家康に嫁いだエピソードとして、子どもを行水させていたところに家康公の大名行列が通りかかり、慌てて子どもごとたらいを持ち上げたお亀の方を目にした家康公がその怪力に驚き、惚れ込んで側室に招いた、という伝承があります。

お亀の方は、時代の大転換期にあって、松花堂昭乗らとも結んで、八幡神領の保護に腐心したと伝わります。お亀の方の母は、宇治の茶師・尾崎坊家の出身で、お亀の方の取り立てで尾張徳川家にも宇治茶が進上されたといいます。

出典:八幡市役所公式サイト

・お亀の方の歩み

  1. お亀の方は、天正元年(1573年)石清水八幡宮の祀官家・田中氏(紀姓田中氏)の分家である、正法寺・志水宗清の娘として生まれました。
  2. 最初は竹腰正時に嫁ぎ、天正19年(1591年)に竹腰正信を生みますが夫と死別。
  3. 奥勤めに入り豊臣秀吉に仕える石川光元の側室となり、光忠をもうけるも正室の嫉妬で実家に帰されてしまいました。
  4. 文禄3年(1594年)徳川家康に見初められて側室に入ります。翌年授かった仙千代は6歳で夭折。
  5. 慶長5年(1601年)家康の九番目の男子として五郎太(徳川義直)が誕生します。
  6. 慶長8年(1603年)2歳になった義直は甲府藩主となりますが、お亀の方と共に駿府城の家康の側で過ごします。家康の教えをよく守り、慶長12年(1607年)には、徳川御三家筆頭・尾張藩主 徳川家初代となりました。
  7. 元和2年(1616年)家康が死去。お亀の方は出家し「相応院」となり、義直とともに名古屋に移り住み、藩祖の母として敬意をうけて過ごしました。
  8. お亀の方は寛永19年(1642年)没。
    義直は慶安3年(1650年)病没
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お亀の方が映画やドラマに取り上げられることが少ないのは、波乱万丈が少ないからかな?

【2】お亀の方の息子たち

徳川家康との間に産まれた尾張徳川家の初代・徳川義直が有名ですが、お亀の方が家康に見初められる前に嫁ぎ先でもうけた、竹腰正信・石川光忠も徳川家で重用されました。

・徳川義直

幼名は五郎太。江戸初期の尾張(名古屋)藩主。御三家の筆頭に数えられ、寛永3年(1626年)には従二位、権大納言(ごんのだいなごん)に任ぜられました。

領内の治水に努め、新田開発を進めるとともに商工業の保護も行い、瀬戸窯業の発展の基礎を作りました。儒学や神道にも造詣が深く、『類聚日本紀』『神祇宝典』などの著書があります。

Tokugawa Yoshinao.jpg
▲徳川義直- 徳川美術館所蔵品, パブリック・ドメイン, Link

清凉院がある一帯の地名は、義直の幼名を由来とする「五郎太町」。そして「大亀谷」という地名の由来は「お亀の方」という説が有力だそうです。

古くは「狼谷」と呼ばれていた地域で、史料に「大亀谷」という名が出てくるのが豊臣秀吉が伏見城築城の命令を出した以降のためです。他には、峠の茶屋の看板娘「亀」の人気にちなんだという説もあるそうですが‥^^

五郎太町 街区表示板
▲五郎太町 街区表示板

・竹腰正信、石川光忠

二人とも徳川家で重用されました。
家康がお亀の方と義直を、いかに大切にしていたかがわかりますね^^

  • 竹腰正信(1591年~1645年)
    最初に嫁いだ竹腰正時との間の息子。
    お亀の方が側室に入ると同時に内々に伏見城で家康に引見、小伝次正信と名乗り、家康の小姓から義直の小姓に移り、義直が尾張清須の国へ転封後、竹腰山城守正信と名乗ります。のちに名古屋城の城代家老となり美濃今尾三万石を与えられました。
  • 石川光忠(1594年~1628年)
    お亀の方の二番目の夫・石河光元との間の息子。
    光元は関ヶ原の戦いでは徳川の敵方でしたが、お亀の方が徳川家康の側室となり、徳川義直を産んだことで、慶長13年(1608年)に召し出され、慶長15年(1610年)美濃国と摂津国に合計1万300石の知行を賜ります。慶長17年(1612年)、家康の命で尾張藩主の徳川義直に付属し名古屋城代となりました。
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お亀の方は出自に引け目を感じつつも、尾張徳川家を盤石にするために尽力した聡明な女性であったようです^^

【3】清凉院の歩みと見どころ

清凉院のある一帯は、かつては伏見城の領地でした。お亀の方が住んでいた屋敷は、後に妙心寺塔頭 大雄院に移築されたため、当時の建築物はありません。

現在の本堂など、建物内部は美しく整えらえて優しく品の良い雰囲気でした。

・清凉院の歩み

  1. 豊臣秀吉の死後、清凉院の場所には伏見城に入った徳川家康の側室・お亀の方の屋敷があり、慶長5年(1601年)に五郎太が誕生。
  2. 慶長8年(1603年)お亀の方と五郎太は家康とともに駿府城に引越。
    ※お亀の方のお屋敷は、前夫との子 石河光忠が父・光元の菩提寺として建立した、臨済宗大本山妙心寺塔頭 大雄院(だいおういん)に移築。
  3. 入れ替わりに、お亀の方の菩提寺である八幡の正法寺から、道運至心和尚が移り住み小さい草庵を開山。当時は清凉庵とも福壽庵とも呼ばれていました。
  4. 五代目 黄檗山萬福寺の清涼観了が入られた時は黄檗宗に改められ、しばらくは黄檗僧の隠居所になります。
  5. 安永7年(1778年)九代目 瑞空天慶大徳が浄土宗より入られて以降は、浄土宗知恩院派の尼寺になり現在に至っています。

・特別大公開と御朱印

清凉院は通常非公開。2018年度「京都浄土宗寺院特別大公開」の時に伺いました。
日時:2018年10月6日~8日 10:00~15:00
拝観料:500円(おぜんざいとお茶付)
内容:初代尾張藩主義直公(五郎太丸)誕生時に繁栄祈願に入仏した阿弥陀如来と五郎太丸像を初公開。

※御朱印は2018年のものです。

清涼院御朱印
▲アート御朱印 見開きで華やか!

・百日紅の木とお庭

通常は非公開ですが、お庭は入る事ができます。

清涼院入口
▲入り口は駐車場の奥です。
清涼院 百日紅の木
▲大きな百日紅の木(京都市指定保存樹)
清涼院
▲清凉院の石碑
清涼院
▲清凉院のお庭
清涼院
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近くにあった北堀は、北堀公園として整備されていますので、散策するのもおすすめ。

【4】お亀の方ゆかりの寺

お亀の方は、尾張徳川家藩祖の母として敬意を受けて過ごされたので、その菩提寺も庇護を受け発展しました。

・正法寺(しょうぼうじ)

後奈良天皇勅願寺・家康側室「お亀の方」ゆかりの寺。室町時代に後奈良天皇の勅願寺となり、その後、徳川家康公の側室、尾張藩初代藩主・徳川義直公の実母である「お亀の方(相応院)」の菩提寺として発展。

創建当初の建物、重要文化財の本堂・大方丈・唐門、京都府指定文化財の小方丈・書院・鐘楼、庫裏の七堂伽藍や、重要文化財の阿弥陀如来坐像、狩野派の襖絵、京都府の名勝指定の庭園など見どころもたくさん。

正法寺 公式サイト

・相應寺(そうおうじ)

尾張徳川家の菩提寺。初代藩主義直が生母相応院 お亀の方の菩提のために建立。寛永20年9月(1643年)お亀の方の一周忌に堂宇落成。歴代の尾張藩主から尊崇された寺院です。

公式サイトには、お亀の方の様々なエピソードが紹介されています。

相應寺 公式サイト

・大雄院(だいおういん)

臨済宗大本山妙心寺塔頭 大雄院は、慶長8年(1603年)尾張藩家老であった石河光忠が、父・光元の菩提寺として慧南玄譲を開祖に迎えて建立しました。

現在の大雄院建築は、お亀の方が徳川家康より賜った伏見の屋敷を移築したものです。京都府指定・登録文化財として客殿、書院、庫裏、表門があり、客殿と書院は享保11年(1726年)に再建され、庫裏は江戸時代末期に改造されて以来の貴重なものです。なお表門にいたっては、当院創建時のものでそのまま400余年を経た姿を残しています。

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妙心寺 大雄院 | 御朱印と襖絵プロジェクト [特別拝観]

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お亀の方の人生のターニングポイントとなる場所にお寺があるんですね。

【5】アクセス

JR奈良線「JR藤森駅」からが近くて一番楽です。
近鉄京都線・京阪本線「丹波橋駅」、京阪本線「墨染駅」からは結構上り坂です。

・京都駅から

  • JR奈良線 城陽行、奈良行き乗車「JR藤森駅」まで約9分。下車徒歩約10分。
    ※快速は停車しません。
  • 近鉄京都線 近鉄奈良行、橿原神宮行き乗車「近鉄丹波橋駅」まで約9~12分。下車徒歩16分。

・三条京阪から

  • 京阪本線 淀屋橋行き乗車「丹波橋駅」まで約11~17分。特急も停車します。下車徒歩16分。
    ※「墨染駅」からも徒歩16分くらいです。

・JR藤森駅から

住宅地の中を歩いて行きます。サインはないので、ちょっとわかりにくいかも。Google Mapでナビしてください^^

  1. 住宅地の突き当りに「清凉院」の石碑があります。(裏口で閉まっています)
  2. 左に少し行くと右手にある、人しか通れない細い道を抜けます。正面は北堀公園の入口。
  3. 横断歩道は渡らず、右折して少し下ると駐車場の奥に清涼院の入り口があります。

[地図]
A地点:JR藤森駅
B地点:清凉院
C地点:丹波橋駅

近所にある史跡

徒歩5分くらいの距離にあります。
桜町大神宮 [神明神社]| 桜町中納言と呼ばれた藤原成範が建立
徒歩15分くらいの距離にあります。
藤森神社 | 勝運・学問と馬の神様、見どころ8選

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近くに天守閣が見えますが、豊臣秀吉・徳川家康の「伏見城」ではありません。閉園した遊園地の伏見桃山城 模造天守です。周囲は公園になっています。