藤森神社 | 勝運・学問と馬の神様、見どころ8選

藤森神社

藤森神社は203年創建の古社。勝運・学問と馬の神様として信仰されています。伝説やご利益など、見どころをまとめました。

最近は刀剣「鶴丸」で注目されていますが、日本書紀を編纂した舎人親王(とねりしんのう)をお祀りしている神社として、学問のご利益にも注目です!

参拝は、藤森神社の奥深さを感じられる南門からがおすすめ。南門から順番に見どころをご紹介します!

基本情報
藤森神社
所在地 京都市伏見区深草鳥居崎町609
TEL.075-641-1045
藤森神社 公式サイト

【1】鳥居の扁額がない!

・新選組 近藤勇が扁額を外す

江戸時代、正徳元年(1711年)の銘がある石造りの鳥居。かつて、この鳥居には後水尾天皇 宸筆(しんぴつ)の額がかかげて有りました。

そのため、西国大名参勤交代で各大名が神社前を通る時は、駕籠(かご)からおりて拝礼をし槍などは倒して通行していたそうです。

時は流れ幕末動乱の時代になると、新選組の近藤勇が「このような悠長な事はしていられない!」と額をはずしたと言われています。(駒札より)

近藤勇が伏見にいたのは慶応元年・元治2年(1865年)~慶応3年(1867年)。なので扁額を外したのもこの頃になります。

藤森神社 南門
▲藤森神社の南門
藤森神社 石造鳥居
▲鳥居の扁額が無い!

・近藤勇の勝運は・・

慶応3年(1867年)12月18日、近藤勇は伏見墨染で銃撃され肩を負傷し、沖田総司とともに大坂城で療養。

慶応4年(明治元年1868年)1月3日に旧幕府軍と新政府軍の間で鳥羽・伏見の戦いが発生。近藤負傷のため土方歳三が隊を指揮しますが新政府軍の銃撃に太刀打ち出来ず敗北。新選組は幕府軍艦で江戸に戻ります。

その後、近藤は改名して生き残りを模索するも失敗。4月25日に板橋刑場で斬首され、首は京都の三条河原で晒し首にされました。その後の首の行方は不明です。享年35(満33歳没)。
Wikipediaより抄録

近藤勇
▲新撰組隊長 近藤勇 国立国会図書館
ミィコ
近藤氏は、扁額を外したことにより勝運を逃してしまったと思わざるを得ませんね・・・いや、外していなくても同じだったかもしれないですが・・

【2】藤森神社 宝物殿

摂政3年(203年)、神功皇后がこの地を聖地として選び兵具を納めた後、藤森神社は戦勝を祈願する神社として信仰を集めてきました。

宝物殿では、神社に伝わる戦いに因んだ武具を中心にしたコレクション100点余りが常設展示されています。鎧、刀剣、大筒、弓、銃器から、神社の歴史や文化に関する資料、武士のたしなみの品である茶室用脇差、笄(こうがい/整髪セット)など、バラエティに富んた内容です。

その他、藤森神社が馬と関係が深い神社であることから、馬をモチーフにした国内外の民芸品コレクションや、参拝者から奉納された鶴丸関連のキャラクターグッズも併設展示されています。

基本情報
藤森神社 宝物殿
時 間 9:00~17:00 ※入館は16:45まで
休館日 5月5日は藤森祭のため休館
拝観料 無料

※館内は撮影禁止

・刀剣「鶴丸国永」について

太刀「鶴丸国永」写し刀は常設展示されていませんが、時々公開されますので 公式サイト の最新情報でご確認ください。

鶴丸(つるまる)は、平安時代の刀工・国永作の日本刀(太刀)で、『享保名物帳*』にも記載される名物の一つ。皇室が規定する「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」でもあり、皇室の私有財産として宮内庁が管理しています。

*享保名物帳とは、江戸時代の武家社会において名刀の出自や伝来を公的に保証して格付けした台帳。世に名高い名刀約250口を収録。

出典:Wikipediaより抄録

古来より、我国には刀剣を「武器」としてだけでなく、魂が宿る「霊器」としてとらえる特有の精神文化がありました。そのため、御神霊の宿る御神刀や、祈願成就のための素晴らしい刀剣が神社仏閣に奉納刀として献備されてきました。

藤森神社には、太刀銘国永『名物鶴丸』が、一時期、神前に奉献されていたと伝えられています。将軍徳川吉宗の時代、享保年間(1716年~1736年)の頃です。

その後『鶴丸』は持ち出され、様々な武将の手元を渡り、明治34年(1901年)、明治天皇の仙台巡幸の際に、第14代藩主・伊達宗基から明治天皇に献上されました。現在は天皇陛下(明仁)が相続され、宮内庁で保管されています。

そのため、現在藤森神社には本物の『鶴丸』はありませんが、人間国宝・故宮入行平刀匠の高弟、藤安将平刀匠による『鶴丸』の*写しが奉納されています。(*写しとは、室町時代以前の古刀を再現したもの)

・紫絲威大鎧(重要文化財)

紫絲威大鎧(むらさきいとおどしおおよろい)は、南北朝時代に高貴な武将が着用したものです。

熟練の職人さんが丹精込めて作られたのでしょう。非常に手が込んでいて、細部まで丁寧に作り込まれています。経年劣化で色褪せていますが、当初はさぞかし艶やかな紫の美しい甲冑だったと思われます。

藤森神社宝物殿
▲宝物殿
ミィコ
昔の貴重な文化財とキャラクターグッズの対比が面白いです^^

【3】菖蒲の節句発祥の神社

貞観5年(863年)から始まった「藤森祭」は「菖蒲の節句」発祥の祭と言われています。現在も毎年5月1日から5月5日に行われ、各家々に飾られる武者人形には藤森の神が宿るといわれます。

「菖蒲」は「尚武」に通じ、「尚武」は「勝負」に通じるので、勝運を呼ぶ神として信仰を集めてきました。

境内には、武者人形の象徴として建立された「神鎧像」をはじめ、「神馬像」や絵馬舎には大きな「馬」の絵馬も奉納されています。競馬関係者(馬主・騎手等)、競馬ファンの参拝者も多いそうです。

藤森神社
▲神鎧像(かむよろいぞう)
藤森神社 祭
▲藤森祭 鎧がずらり

・藤森祭と駆馬神事の由来

勝運と馬の神様として信仰される藤森神社。「藤森祭」では、5月5日に武者行列 と曲乗りの妙技で有名な駆馬神事(かけうましんじ)が奉納されます。

その昔、桓武天皇の弟である早良親王(さわらしんのう)は藤森神社を崇敬し、征討将軍として出陣する際に戦勝を祈願されました。その日が5月5日だったと伝わります。

「藤森祭」として武者行列と駆馬神事が奉納されるようになったのは、貞観5年(863年)清和天皇の勅命による「貞観の祭」にさかのぼります。

甲冑・鎧を着飾った武者行列は早良親王の蒙古征討を表していると言われ、駆馬神事は怨霊を鎮める御霊会(ごりょうえ)の行事の一つと考えられます。

都名所図会 6巻より
▲都名所図会 6巻 天明6年(1786年)発行 国立国会図書館
早良親王についての伝承

資料によると(吉田兼倶の藤森社縁起、拾遺都名所図会 巻五等)、天応元年(781年)に「異国の蒙古」が日本へ攻め寄せ、早良親王が大将軍となり率いた軍勢がこれを退けました。

その際、藤森神社で戦勝を祈願したことより藤森神社には「弓兵政所」の異名がつき、境内にある蒙古塚は蒙古軍の大将の首を埋めた場所と伝わります。

早良親王は、かなりの勝運をお持ちの方だったのは間違いないようです。でも・・その後・・

早良親王は崇道天皇として藤森神社にも祀られています。

延暦4年(785年)早良親王は、兄である桓武天皇から長岡京遷都にかかわる藤原種次暗殺事件の嫌疑をかけられます。そして身分を廃され乙訓寺に幽閉。無実を訴えるため絶食し、淡路国に配流される途中に憤死しました。

その後、桓武天皇の近親者達の病死、疫病の流行、洪水などが相次ぎます。陰陽師の占いによって、それらは早良親王の祟りであるとされました。

桓武天皇は、早良親王の怨霊から逃れるために都を長岡京から平安京に遷すことにします。そのために、まずは早良親王鎮魂の儀式を幾度か執り行ないました。延暦19年(800年)には崇道天皇と追称し、各地で祀られることになりました。(御霊信仰)

・可愛い馬のおみくじ

宝物殿の左手に、鶴丸に関連するグッズや正統派デザインのお守りなど、いろいろな授与品が用意されています。窓口の左手に納札所がありますので、古いお札はお返しして、新しくお守りを授与していただきましょう!

藤森神社 おみくじ
▲馬の神様のアドバイスを拝受しましょう!
ミィコ
5月1日~5日の藤森祭では本物の鎧や馬(駆馬神事)を堪能できます。可愛い白馬のおみくじは通年あります^^

【4】手水鉢台石と石川五右衛門

手水鉢の台として使わている石は、石川五右衛門が宇治浮島にある十三重の塔から拝借したものだとか。

手水鉢台石の由来
この手水舎の水鉢の台石は 宇治浮島にある十三重の塔の上より五番目の石を 石川五右衛門がもち来たりし物と云われており 現在十三重の塔を見るとその部分だけ石の色が違っているのがわかる。
社務所(駒札)

藤森神社手水舎
▲手水舎と駒札
宇治 十三重石塔
▲浮島十三重石塔 5番目の石の質感が少し違うような気も?
ミィコ
面白い言い伝えだけど、上から5番目の石だけを持ってくるなんて可能なんでしょうか^^

【5】藤森神社のご利益

藤森神社の本殿は、東殿・本殿中央・西殿の三座から成ります。時の流れの中で、近隣にあった諸社が合祀された結果、多くの神が祀られています。

本殿の建物は、正徳2年(1712年)に中御門天皇より賜った宮中*内侍所(ないしどころ)で、現存の内侍所としては最も古いものだそうです。

*内侍所(ないしどころ)は、賢所(かしこどころ)とも呼ばれ、三種の神器の一つである神鏡を祀る殿舎のことです。

・本殿|勝運・学問・馬の神様

藤森神社本殿

■本殿中央(中座)
御祭神は、素盞鳴命、別雷命、日本武尊、応神天皇、仁徳天皇、神功皇后、武内宿禰の七柱。
神功皇后が摂政3年(203年)新羅侵攻より凱旋の後、深草の里藤森の地を神在の聖地として選び、纛旗(とうき、いくさ旗)を立て、兵具を納め、塚を造り、神祀りされたのが藤森神社の起こりです。現在、本殿東にある旗塚がその塚です。延暦13(794年)桓武天皇より弓兵政所の称が授けられ、遷都奉幣の儀式が行われました。

■本殿東殿(東座)
御祭神は、*舎人親王、天武天皇の二柱。
天平宝字3年(759年)深草の里、藤尾(現在の伏見稲荷の地)の地に鎮座。永享10年(1438年)後花園天皇の勅により、時の将軍足利義教が藤尾大神を藤森神社に遷座し、東殿に祀り官幣の儀式が行われました。舎人親王は、日本書紀の撰者であり武道にも優れた文武両道の神で皇室や藤原一門にも崇敬されました。

■本殿西殿(西座)
御祭神は、早良親王、伊豫親王、井上内親王の三柱。(いずれも非業の死を遂げた御霊です)
延暦19年(800年)早良親王は崇道天皇と追号され、塚本の地(京都市東山区本町十六丁目)に祀られました。天長3年(826年)伊豫親王、井上内親王の二柱を合祀し官幣の儀式が行われました。その後、小天王の地(深草西出町)へ移転、応仁の乱で焼失したため、文明2年(1470年)三柱は藤森神社に遷され西殿に合祀されました。

*舎人親王(追号:崇道尽敬皇帝(すどうじんきょうこうてい))

天武天皇の皇子として生まれます。720年に完成した日本最初の歴史書である「日本書紀」の編纂を主宰し、紀30巻系図1巻を奏上。万葉集にも3首の歌が残されています。また一方で、弓矢の秘法を伝えるなど、文武両道に優れ、皇室や藤原一門、武家からも崇敬されました。

没後20年以上たった天平宝字2年(758年)第7王子の大炊王が即位(淳仁天皇)すると、翌年、天皇の父として崇道尽敬皇帝と追号されました。

また、曾孫の清原夏野は「令義解」「日本後記」を編集。同族の清原深養父、清原元輔や清少納言は歌人・文人として知られ、清原家は菅原家・江家と並び学問の家系として活躍しました。

藤森神社 舎人親王
▲学芸の祖・舎人親王の碑
藤森神社拝殿
▲拝殿

・大将軍社|方除けの神様

本殿の後方にある末社の大将軍社・八幡宮の社殿は重要文化財。
永享10年(1438年)の建築当時は本殿と並んで一列に建っていたと見られています。

藤森神社 大将軍社
▲大将軍社 社殿(重要文化財)

大将軍社の御祭神は、磐長姫命(いわながひめのみこと)。 永享10年(1438年)将軍足利義教の造営。

桓武天皇が平安遷都をされた時に、都の四方に大将軍社が祀られました。南方の守護神として祀られたのがこの社で、古来より方除けの神として崇敬を集めています。

・八幡宮社|開運、武運の神様

藤森神社 八幡宮
▲八幡宮 本殿(重要文化財)

八幡宮社の御祭神は応神天皇。永享10年(1438年)将軍足利義教の造営。

八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)は、応神天皇の別名、誉田別命(ほんだわけのみこと)の神霊で、全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めました。

ミィコ
藤森神社は勝運と馬の神様として、競馬関係者・競馬ファンの参拝者のみならず、日本書紀を編纂した舎人親王をお祀りしている神社として、学問のご利益にも注目されています。

【6】神功皇后 御旗塚

藤森神社 御旗塚

・藤森神社 発祥の地

藤森神社が創建された場所です。
社伝によると神功皇后摂政3年(203年)三韓征伐から凱旋した神功皇后が、山城国・深草の里の藤森に纛旗(とうき、いくさ旗)を立て、兵具を納め塚を作り、祭祀を行ったのが発祥であるとしています。

都名所図会 6巻より
▲都名所図会 6巻 天明6年(1786年)発行 国立国会図書館

・腰痛に効くらしい

このいちいの木は「いちのきさん」として親しまれています。新選組の近藤勇が参拝して腰痛を治したと伝えられています。

ミィコ
都名所図会を見ると「いちのきさん」は200年前までは普通の木だったようですね。北海道に樹齢1,700年のイチイの木があるそうですが、寿命を迎えたのかもしれません。

【7】ご神水 不二の水

ご神水「不二の水」は二つとない美味しい水という意味で、地下約100メートルから湧き出ているそうです。
武運長久・学問向上、特に勝運を授ける水として信仰されています。

不二の水
ミィコ
まろやかで優しい水でした^^ ペットボトルに水を汲みに来ておられる方もいます。

【8】季節の花やお祭り

・4月|藤の花

拝殿のそばに藤棚があります。

『むらさきの雲とそよそに みへつるは 木高き藤の森にそ有ける』 小待院

この和歌や、「藤森(ふじのもり)」という地名から、かつてこの辺は藤の叢林で森を形成していたことが推測されます。
そして、藤の花は神を招く依代(よりしろ)であったといわれていますので、「藤森に在る神」を祀る処として、この地に社が建てられたと考えられます。

ミィコ
現在の藤棚はそんなに大きいものではありません。かつては繁殖して咲き乱れていたのかもしれませんね。

・5月|藤森祭

菖蒲の節句発祥の神社として、5月1日から5月5日まで藤森祭が行われます。

ハイライトは5日で、早朝の神幸祭の後、鎌倉時代から有名な神輿・武者行列(鼓笛隊)が氏子地域を巡行し、境内では馬を駆りながら乗り手が曲技をする「駈馬神事」が奉納されます。
「藤下り」「手綱潜り」「逆立ち」「横乗り」「一字書き」「矢払い」「逆乗り」といった離れ技に注目!

藤森神社 祭
▲神輿(江戸時代) 祭礼当日、氏子地区を渡御
ミィコ
藤森祭は、屋台もたくさん出て多くの人で賑わいます。屋台の数は1、2日は少なめで、3日以降ぐんと賑やかになります。

・6月|あじさい祭

境内2カ所の紫陽花苑に、毎年6月下旬から7月上旬にかけて約3,500株のあじさいが咲き誇り「あじさい祭」が開催されます。

セイヨウアジサイ・ガクアジサイ・カシワバアジサイ・オタフクアジサイ・アナベルなどさまざまな種類のあじさいがありますので、お気に入りのあじさいを探してみませんか。

あじさいの開花状況は、藤森神社公式Twitter でチェック!

あじさい祭|基本情報
日時 6月上旬から約1カ月間 9時~17時(紫陽花苑)
料金 中学生以上300円(紫陽花苑入苑料)
藤森神社 あじさい
▲藤森神社あじさい祭 京都フリー写真素材
ミィコ
紫陽花苑は結構広いです。参道からも少し見えます^^

藤森神社|アクセス

最寄り駅は、JR奈良線「JR藤森駅」と、京阪本線「墨染駅」です。

▼最寄り駅から南門(地図のB地点)までは、徒歩約5分です。

・京都駅から

JR奈良線 城陽行、奈良行乗車。「JR藤森駅」まで約9分。改札口を出て右へ
※地図のC地点です。快速は停車しません。

・三条京阪から

京阪本線 淀屋橋行き乗車。「墨染駅」まで約15分。改札口を出て左へ
※地図のA地点です。特急は停車しません。

ミィコ
伏見稲荷大社が鎮座する稲荷山は、もともとは藤森神社の土地だったそうです。弘法大師が借地の交渉をした伝承があるそうです。

※この記事の史実に関する記載は、公式サイト、駒札、山本眞嗣「京都伏見歴史紀行」、梅原猛「京都発見1」を参考に作成しました。

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猫好き管理人ミィコです。京都散策に役立つブログを目指して、スローペース更新中。基本的に市バス・電車で移動です。主に週末ふらふらしています。facebookでブログ更新お知らせ中!