崇道神社 | 京都で一番怖い神社?早良親王を鎮魂する神社

崇道神社 参道

崇道神社(すどうじんじゃ)は、桓武天皇の実弟で皇太子でもあった早良親王(さわらしんのう)=崇道天皇をお祀りする神社です。

早良親王は兄である桓武天皇から藤原種継の暗殺に関与したと流罪に処され、無罪を訴えながら亡くなりました。延暦4年(785年)の出来事です。

その後、桓武天皇の身辺に次々と凶事が発生、陰陽師によって早良親王が怨霊となって祟っていると認定されました。

親王の祟りをおさめるために創建されたのが崇道神社です。

この記事では、怨霊と御霊の関係、早良親王が怨霊と言われるようになった経緯、神社の歴史、御朱印、アクセス方法などをご紹介します。

基本情報

崇道神社
所在地 京都市左京区上高野西明寺山町34
TEL.075-722-1486
境内自由

【1】京都で一番怖い神社って本当?

「崇道神社」をGoogle検索すると、サジェストで「崇道神社 怖い」というキーワードも出てきますね。実は、京都で一番怖い神社とも言われているようです。

半信半疑ながら噂を知っていたので、お天気の良い日を選んでドキドキしながら参拝しました。

結論から言うと、週末でも参拝者はちらほらで、少し心細い雰囲気はありましたが、怖いということはなかったです。

誰もいないので、御祭神を1人占めして参拝する事ができました^^

噂の真相は、御祭神が最強の御霊だったと伝わる早良親王なので、オカルト好きの方々が話を盛って都市伝説になっているのかなぁと思います。(←個人の感想です)

崇道神社 参道
▲崇道神社の参道は300mくらい
ミィコ

ミィコは鈍感力に自信があるので、本当に霊感なるものが存在していたらスミマセン。

【2】早良親王(=崇道天皇)とは

早良親王は第49代 光仁天皇の皇子。桓武天皇の同母弟で、光仁天皇の希望により桓武天皇の後継者と目されていました。

「崇道天皇」は早良親王の死後に贈られた尊号です。実際に皇位継承をしたわけでなないので、歴代天皇には数えられていません。

・冤罪に抗議して自死した親王

  1. 天平勝宝2年(750年)頃、光仁天皇の皇子として、早良親王が誕生。
  2. 天平宝字5年(761年)出家。親王禅師と呼ばれ、奈良仏教界の高い地位にありました。
  3. 天応元年(781年)兄・桓武天皇の50代天皇への即位と同時に、父・光仁天皇の勧めで還俗し正式に皇太子となりました。
  4. 延暦3年(784年)長岡京遷都。
  5. 延暦4年(785年)長岡京造宮使・藤原種継の暗殺事件が発生。桓武天皇は早良親王の関与が濃厚であるとして廃太子の上、乙訓寺に幽閉。淡路への流罪に処しました。

    早良親王は無実を訴え、10日あまり絶食して抗議しましたが聞き入れられず、淡路国に配流される途中に亡くなり、その遺体はそのまま淡路島に送られ葬られました。

桓武天皇のもとで藤原種継が中心となって行っていた長岡京造営の目的の一つには、奈良寺院の影響力排除もありました。桓武天皇は、奈良寺院の遷都反対勢力が種継暗殺を企てたと疑い、それらとつながりが深い早良親王の責任も問い事実上の処刑に及んだとされます。

・桓武天皇の身辺で凶事が頻発

早良親王の死後、

  • 桓武天皇の母、高野新笠(たかのにいがさ)が病死。
  • 桓武天皇の妃、藤原旅子・藤原乙牟漏・坂上又子が病死。
  • 早良親王にかわって皇太子となった、安殿親王(あてしんのう)も病気がちに。
  • 疫病が流行、飢饉、洪水など天変地異も相次ぎ発生。

これらの凶事によって、早良親王を自殺に追いやったことを負い目に感じていた桓武天皇の心に怨霊への恐怖が生まれます。

延暦11年(792年)には陰陽師が凶事の原因は親王の祟りと認定。鎮魂の儀式が執り行われますが祟りはおさまらず、儀式直後と2ヵ月後にも川が氾濫し大きな被害がでました。

そのため桓武天皇は祟りから逃れるため、天皇としての徳がないと民衆に判断されるのを避けるため、長岡京を廃し平安京に遷都を決めたのです。

・早良親王、御霊として祀られる

  1. 延暦13年(794年)平安京遷都。
  2. 延暦19年(800年)桓武天皇は早良親王に「崇道天皇」の尊号を贈り、奈良南部に八嶋陵を造営し改葬。
  3. 延暦25年(806年)桓武天皇 崩御。しかし、その後も祟りはおさまりません。
  4. 貞観5年(863年)祟りを鎮めるために、早良親王など六柱の御霊を鎮魂する行事「御霊会(ごりょうえ)」が平安京の禁苑(天皇のための庭)「神泉苑」で営まれました。
  5. 貞観年間(859~877年)頃、各地で御霊会が開催され御霊信仰が世の中に広がり、平安京の大極殿の鬼門(北東)にあたる上高野の地に「崇道神社」創建されました。
ミィコ

崇道神社のご利益は諸願成就だそうです。特に冤罪で苦しんでいる方に御利益がありますように。

【3】怨霊と御霊信仰

本来、御霊(ごりょう)は“ミタマ”を意味しました。しかし平安時代になって、非業の死を遂げた者の“死霊・怨霊”へと意味が転化したのです。

天変地異はすべて御霊の所業と考えられ、のちに御霊信仰に発展していきました。

・怨霊(=御霊)とは

奈良時代半ば、王権中枢部では、権力抗争の末に敗死した特定の者の霊が怨みをもって現れるという観念がうまれつつありました。

政争に敗れて非業の死をとげた人間の霊は怨霊となり、憎悪する相手に激しく祟るというのです。

・御霊信仰のはじまり

奈良時代末期~平安時代初頭以降になると、王権反逆者の怨霊=祟り神(たたりがみ)は荒御霊であり畏怖され忌避されると同時に、手厚く祀りあげることで強力な守護神となると信じられるようになりました。

政治都市だった京都には数えきれない怨霊が誕生。中でも別格の大物たちは「六所御霊(ろくしょごりょう)」と呼ばれました。その第一号が早良親王です。

人々は「怨霊」を敬意の念をこめて「御霊」と呼び 、怨霊の怨みの心を慰め鎮めるための「御霊会」と呼ばれる法会を、賑やかに華やかに営み疫病退散を祈りました。

御霊会
怨霊(=御霊)信仰は京・畿内からはじまり、毎年夏から秋にかけて、御霊を祀る法会(=御霊会)が催され、しばしば夜通しで行われました。
御霊を仏と見立てて経を説き、歌や舞を加え、さらには童子を美しく着飾らせて馬上から弓を射させ、たくましい体格の者たちに相撲をさせ、競馬を催し、芸人たちの芸競べでその場の気分を盛り上げるという具合になり、これを観ようと大勢の人々が集りました。

御霊会は、民衆の参加を許すことで政治への不満や社会への不安から目を逸らさせる効果もあったと考えられています。現在も続く「祇園祭」も御霊会を起源としています。

出典:神仏習合(岩波新書)より抄録
ミィコ

御霊信仰は、怨霊を鎮魂して御霊として盛り上げ、マイナスのパワーをプラスに変換させるという発想がポジティブでいいですね!

【4】崇道神社の見どころ

崇道神社は厳かで静かな森に佇むお社です。

崇道天皇を唯一の御祭神とするのは、ここ崇道神社だけです。

・崇道神社の歴史

  • 平安時代、貞観年間(859-877年)頃に創建。詳細は不明。
  • 鎌倉時代から室町時代、周辺の廃社を合祀して高野郷総社になる。
  • 江戸時代、「高野御霊」と呼ばれ、地域の産土神として祀られる。
  • 近代、近隣にあったとされる神社が合祀される。
    明治41年(1908年)式内社・伊多太神社を崇道神社境内に遷座。
    大正4年(1915年)式内社・出雲高野神社、小野神社を再興し合祀。

・本殿

上高野西明寺山の森を背景に本殿が鎮座されています。

建物自体は大きくないけれど、神聖な雰囲気が漂っています。本殿の手前にある、榊が立てられた盛り砂が印象的。

崇道神社 社務所
▲階段奥に本殿。右手前は社務所
崇道神社 本殿
▲本殿

・摂社(伊多太神社、他)

伊多太大神は湧き水・農耕の神様で当地の氏神様。現在は社務所前の小さな社にお祀りされています。

かつての伊多太神社は洛北唯一の古社で、延喜式内社でもあり、現在地の400mほど西に位置する、かなり大きな神社だったようです。しかし、応仁・文明の乱(1467-1477年)で焼失し衰退。

明治16年(1883年)に再興され、明治41年(1908年)に崇道神社に合祀されました。

崇道神社 摂社
▲社務所の前にある伊多太神社(右) 。

さらに、伊多太神社と同じく延喜式内社だった小野神社(祭神 小野妹子、小野毛人)も再興され、崇道神社に合祀されています。

境内には他にも、小野毛人(おののえみし)のお墓や、その他の摂社がお祀りされています。

ミィコ

崇道天皇は、上御霊神社・藤森神社にも他の神様と一緒にお祀りされています。

【5】御朱印

御朱印は「崇道神社」と「伊多太神社」の二種類があります。
いずれも書置きで、本殿右手前の社務所で拝受できます。ただしセルフサービスです^^

社務所が開いている時は年月日を書き込んでくださるそうですが、閉まっている事が多いようです。その時は、年月日の空欄部分に自分で記入しましょう。

崇道神社 御朱印
▲御朱印はセルフサービス
崇道神社 御朱印
▲崇道神社 御朱印
ミィコ

社務所が閉まっている時はお釣りはもらえないので、小銭を用意しておきましょう。初穂料は1枚300円です。

【6】崇道神社 アクセス

お薦めの交通手段は叡山電車。レトロな雰囲気が魅力の旅情あふれる路面電車です。
京都バスは30分に1本なのでご注意。

最寄り駅

  • 京都バス「上橋(かんばし)」から徒歩約2分。
  • 叡山電車「三宅八幡駅」から徒歩約10分。

    三宅八幡駅前の蓮華寺のサインの方向へ。高野川を渡って右折し川沿いに直進。
    ※地図右手の紫のポイントは崇道神社の一の鳥居です。
▲高野川

・叡山電車 出町柳駅から

叡山電車 八瀬比叡山口 行きに乗車「三宅八幡駅」下車。乗車時間:約11分。

・京阪電車 三条京阪から

※三宅八幡駅までの合計所要時間 約24分~37分

(1) 京阪本線 特急 出町柳行「出町柳駅」まで約5分。
→ [出町柳駅 叡山電車に乗り換え]→
(2) 叡山電車 八瀬比叡山口行「三宅八幡駅」まで約11分。

・京都駅から

  • 京都駅前バスターミナルから京都バス
    京都バスは乗り換えなしで楽ですが、本数が少ないのでご注意。
    ★京都駅前バスターミナルのりば案内
    [C3のりば] 京都バス17、18 大原行き「上橋」まで約51分。
  • 地下鉄→ 京都バス
    京都バスの時間に合わせるのがポイント。
    ※上橋までの合計所要時間 約33分~63分。

    (1) 地下鉄 国際会館行「国際会館駅」まで約20分
    → [国際会館駅 3番出口/京都バスに乗り換え]→
    (2) 京都バス19 大原行「上橋」まで約6分。
    ★国際会館バス停地図
  • JR奈良線→ 京阪電車→ 叡山電車
    ※三宅八幡駅までの合計所要時間 約45分~60分。

    (1) JR奈良線 宇治・奈良方面行「東福寺駅」まで約3分。
    → [東福寺駅 京阪本線に乗り換え]→
    (2) 京阪本線 出町柳行「出町柳駅」まで約17分。
    → [出町柳駅 叡山電車に乗り換え]→
    (3) 叡山電車 八瀬比叡山口行「三宅八幡駅」まで約11分。
  • 京都ステーションループバス→ 京阪電車→ 叡山電車
    京都駅中央口から東へ徒歩約2分に位置するホテル「ザ・サウザンド キョウト」前から乗車、京阪七条で京阪電車に乗り継ぎ。
    京阪電車ご利用の方は、片道100円で利用できます。事前に乗継割引券を忘れずにもらいましょう。※ステーションループバス詳細:京阪電車公式サイト

    ※三宅八幡までの合計所要時間:約40分~55分。

    (1) 京阪七条-京都ステーションループバス 京阪七条まで約5分
    → [京阪七条駅 京阪電車に乗え]→
    (2) 京阪本線 出町柳行「出町柳駅」まで約9分。
    → [出町柳駅 叡山電車に乗り換え]→
    (3) 叡山電車 八瀬比叡山口行「三宅八幡駅」まで約11分。

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ミィコ

旅情あふれる叡山電車で行くのがお薦めです。

※この記事の史実に関する記載は、崇道神社駒札、書籍「京都の寺社505を歩く」「本当は怖い京都の地名散歩」「歴史の都洛北を歩く」「京都の魔界をゆく絵解き案内」「神仏習合」、Wikipedia、コトバンク等を参考に作成しました。