八坂神社(昔は祇園社)| 疫病退散!祇園祭の由来と見どころ

祇園祭

7月に入り、祇園四条~烏丸界隈に “コンチキチン~♪” と、祇園ばやしのBGMが流れると、京の町は雅な夏祭りの雰囲気につつまれていきます。

1100年の歴史がある祇園祭。豪華な山鉾が有名ですが、何のお祭りかご存知ですか? 平安時代にまん延した疫病を防ぐために行われた儀式が始まりなんですよ。

儀式は祇園社(=八坂神社)が執り行ったので、昔は祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)と呼ばれました。

この記事では、祇園社と御祭神の牛頭天王(=スサノオノミコト)、祇園祭の由来と歴史、見どころをまとめました。

基本情報

八坂神社
所在地 京都市東山区祇園町北側625
授与所 9:00~17:00 (手書き御朱印は16:00まで)
TEL.075-561-6155
八坂神社公式 サイト

【1】平安京と怨霊

桓武天皇は延暦3年(784年)に平城京から長岡京に遷都しますが、次々と近親者や部下の不幸に見舞われます。陰陽寮の陰陽師に占わせたところ、延暦4年(785年)に亡くなった弟、早良親王の祟りが原因と認定されました。

天皇としての徳がないと民衆に判断されるのを恐れた桓武天皇は、延暦13年(794年)に改めて平安京への遷都を決行。同時に、早良親王の鎮魂のため御霊神社も建立しました。

陰陽師のかかわり
天皇に近い役所、中務省(なかつかさしょう)の陰陽寮には陰陽師が配置されていました。業務内容は天文観測・暦時の管理・事の吉凶を陰陽五行に基づき予言するなど。遷都の際にも、土地・方角などの吉凶を占うことで重要な役割を果たしました。

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▲江戸時代初期の奈良絵本『たまものまへ』より、算木で占いを行う陰陽師の画, パブリック・ドメイン, Wikipedia

・疫病は怨霊の祟り?

延暦13年( 794年 )、桓武天皇は都にふさわしい四神相応の地と認定された京都盆地に平安京を造営します。この地は三方を山に囲まれ、夏は蒸し暑く、冬は冷え込む、寒暖差の大きい内陸性気候の土地でした。

その後、平安京は急速に人口が増加しますが、上下水道が未発達で、汚水と飲料水が混ざるなど衛生状態が悪く、天然痘、インフルエンザ、赤痢、麻疹、コレラなどの感染症が幾度となく大流行。

今でこそ、衛生状態の悪さと高温多湿が原因で感染症が流行する事に頷けますが、当時は、この世に怨みを残して非業の死を遂げた霊魂が怨霊となり、疫病や災いを起こすものと信じられていました。

桓武天皇が恐れつづけたのは早良親王の怨霊で、延暦19年(800年)には崇道天皇と追号し祀りましたが、その後も祟りはおさまりませんでした。

・御霊会のはじまり

おさまらない祟りを鎮めるべく、貞観5年(863年)に朝廷によって怨霊を鎮魂するための御霊会(ごりょうえ)が、平安京の禁苑(天皇のための庭)「神泉苑」で初めて行われました。

しかし、翌年の貞観6年(864年)富士山が大噴火。貞観11年(869年)には貞観地震(陸奥)と津波で多数の死傷者が出るなど、全国的に天変地異が続き、五穀も実らず、社会不安は深刻化する一方でした。

【怨霊とされた御霊】
・早良親王(崇道天皇)‥桓武天皇の弟、冤罪で憤死
・伊予親王‥桓武天皇の第3皇子、冤罪で自害
・藤原吉子‥桓武天皇夫人、伊予親王の母、冤罪で自害
・橘逸勢‥冤罪で護送途中に病没
・文室宮田麻呂、他。

半数は桓武天皇の親族。政治の闇を感じます。

・祇園御霊会(祇園祭)

社会全体の空気として、怨霊の怒りを鎮めることが出来る、強い神仏が求められていたのでしょう。そこに登場したのが、疫病にご利益のある牛頭天王(ごずてんのう)です。

貞観11年(869年)の御霊会では、卜部日良麿(うらべ の ひらまろ)が、当時の国の数を表す66本の矛(ほこ)を立て、「牛頭天王を祀る祇園社」から神輿3基を神泉苑に送り御霊会を執り行ないました。

結果、怨霊の祟りを治めることに成功、祇園社は朝廷・民間から尊崇されるようになります。そのため、この御霊会が「祇園御霊会(祇園祭)」の起源と考えられています。

時代は下り、天禄元年(970年)には初めて祇園社に於いて御霊会が行われ、これまでは疫病流行時のみだった開催が毎年定例開催となりました。

ミィコ

疫病にご利益のある牛頭天王。みんなの強い願いから作り出された神様のように感じます^^

【2】牛頭天王と祇園社

牛頭天王(ごずてんのう)は、祇園社(後の八坂神社)にお祀りされていた、疫病に利益があるとされる神仏習合の神です。

牛頭天王は、日本神話の荒ぶる神・スサノオノミコトと同一視されています。

・祇園社とは?

祇園社とは八坂神社の旧名。牛頭天王を祀る神仏習合の寺社として、平安時代から明治時代までは「祇園社」または「感神院」と称しました。

疫病鎮圧・病気平癒の神として朝廷をはじめ武家や民衆から尊崇され、天皇・上皇もたびたび行幸されました。

戦国期に荒廃しましたが、豊臣秀吉、徳川家康・家綱らの寄進によって再興しました。

「八坂神社」となったのは明治時代。明治新政府の神仏分離令によって、祭神の牛頭天王の名は仏教の神であるため外され、神道の神 スサノオノミコトの名前だけが残されました。同時に「祇園社」の名称も「八坂神社」と改名されました。

【祇園社の神仏習合エピソード】

  • 比叡山延暦寺の末寺とされ、延暦寺の洛中の拠点でもありました。比叡山の鎮守である日吉権現の山王祭が行われない時は、祇園御霊会も連動して中止・延期されることも多かったそうです。
  • 風水の東方・青龍の位置に鎮座し、王城鎮護の神としても尊崇されました。本殿の下には青龍の穴があり、青々とした水を湛えた穴は都の中心・堀川御池の神泉苑に通じていたと伝わります。※現在は漆喰で覆われて見ることはできません。

平安京は、陰陽道による四神相応の風水に適した地として選ばれました。四神というのは、都の四隅・東西南北を守る神獣、青龍・白虎・朱雀・玄武の事です。

・東(青龍)八坂神社
・西(白虎)松尾大社
・南(朱雀)城南宮
・北(玄武)上賀茂神社

八坂神社
▲八坂神社 西楼門

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現在の八坂神社の御紹介
八坂神社 | 青龍に守られた最強厄除けパワースポット

・疫病退散の神、牛頭天王

牛頭天王は、疫病に利益があるとされる神仏習合の神で、日本神話で有名な荒ぶる神 スサノオノミコトと同一視されていました。

牛頭天王は、恐ろしく力強い仏や神が集約された日本独自の神様なのです。

きちんとお祀りして味方になってもらえば、強力なご加護がいただける神様として尊崇されました。

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▲牛頭天王と素戔嗚尊の習合神である祇園大明神(仏像図彙 1783年
By 土佐秀信, パブリック・ドメイン, Wikipedia
  • 牛頭天王
    インドで釈迦が説法を行った「祇園精舎」の守護神、中国では道教の神、朝鮮半島では熱病に効果のある栴檀(せんだん)を産出した「牛頭山」の神とも伝わります。

    日本へは、播磨の明石の浦→広峰の山→北白川の東光寺を経て、現在地に祀られたそうです。

    また、牛頭天王は祇園精舎に因んで祇園天神とも呼ばれ、この地一帯が祇園と呼ばれるようになった由来とされています。
  • スサノオノミコト
    天照大神の怒りに触れて高天原から追放されたり、ヤマタノオロチを退治するなど荒ぶる神様で、最大の祟り神*と言われています。

    日本書紀には、スサノオノミコトは朝鮮半島の新羅国「ソシモリ」の地に降臨したという記述があります。「ソシモリ」とは韓国語で「牛頭」を意味するため、牛頭山の神である牛頭天王が「牛頭」の地に降りたスサノオノミコトと同一視されたと伝わります。

    *祟り神は、畏怖され忌避される荒御霊ですが、手厚く祀ることで強力な守護神となると信仰される神々のことです。

・厄除け粽(ちまき)の伝説

祇園祭と言えば、祇園祭の時期だけ販売される「厄除け粽」も有名。

厄除け粽は、笹の葉でくるんだ藁の束を裂いたイグサを巻いたもので「蘇民将来子孫也(私は蘇民将来の子孫)」と書かれた護符が付いているのが特徴です。京都の町を歩くと家の玄関先に飾られているのをよく見かけます。

厄除け・疫病除けのご利益があると言われる「粽」も「牛頭天王(=スサノオノミコト)」に由来しているのです。

厄除け粽
▲玄関に飾られた厄除け粽

昔々、牛頭天王(=スサノオノミコト)が旅の途中、一夜の宿を探していると、ある兄弟の家にたどり着きました。

裕福な弟、巨旦将来(こたんしょうらい)には、あっさり断わられましたが、兄の蘇民将来(そみんしょうらい)は、貧しいながらも手厚くもてなしてくれました。

そんな蘇民の心遣いに感激した牛頭天王は、「お礼に、お前の子孫を末代まで私が守ってあげよう。目印に、腰に“茅の輪”をつけておきなさい」と言い残して、去って行きました。

その言葉を守った蘇民将来の子孫たちは末代まで繁栄し、巨旦将来は没落したということです。

※この伝説に出てくる「茅の輪(ちのわ)」は “茅(チガヤ|イネ科植物)” を束ねて巻いたものです。「茅巻(ちまき)」も由来は同じで、後に同じ読み方の「粽(ちまき)」へと変化しました。

祇園祭では、蘇民将来にまつわる故事にちなみ、「蘇民将来子孫也」の護符を身につけて祭りに奉仕します。

祭の最終日である7月31日には、蘇民将来をお祀りする、八坂神社境内「疫神社」において「夏越祭」が行われ、「茅之輪守(蘇民将来子孫也 護符)」と「粟餅」が社前で授与されます。このお祭をもって一ヶ月間の祇園祭は幕を閉じます。

ミィコ

牛頭天王は、もともと疫病神ではありますが、蘇民将来の伝説から、ますます信仰が広がったのかもしれないですね。いい話の王道ストーリーです^^

【3】祇園祭の歩み

現在の祇園祭は、14世紀にその原型が整えられたと考えられています。

神輿の渡御(神幸祭)に先立ち、露払いとして都大路を祓い清める役目を担った華麗な山鉾が巡行されるなど、町衆が参加し楽しむ祭りとして発展しました。

・平安時代→ 鎌倉時代末期

御霊会を行ない、怨霊になった魂を御霊とあがめ、依り代として鉾や山を作り、鉦(しょう)や太鼓などの強烈な囃子の行列によって、慰め、いたわり、鎮めようとしました。

「年中行事絵巻」に、神輿の渡御を中心として、山車や芸能・獅子舞も一緒に巡行し人で賑わう様子が描かれています。

※年中行事絵巻:原本は保元2年~治承3年(1157~1179年)頃の成立と推定。

▲祇園御霊会(部分) 年中行事絵巻 国立国会図書館デジタルコレクション

・南北朝時代→ 江戸時代末期

御霊会の一番大切な神事は神輿渡御ですが、南北朝時代になると、御霊会に町衆が積極的にかかわるようになり、さらに祭りの要素が付け加えられていきます。

神輿の渡御を盛り立てるべく華麗な山や鉾が登場し、町衆が主体的に行動し楽しむ風流で賑やかな祭となっていきました。応仁の乱以前は山鉾は58基を数えました。

しかし、応仁の乱で30年以上中断。

戦乱後、神輿の復興が間に合わず比叡山側からは神事の中止を直訴されますが、町衆は山鉾巡行だけでも開催したいと声明を出すなど、山鉾行事は町衆が主体の祭になっていたようです。

「祇園社記録」よると、商業の発達に伴って発生した各種の「座」の中で、材木座練絹座・小袖座・綿座・袴座・菓子座・釜座の七座が祇園社に所属。年貢を納め、祭礼に奉仕することで生産、営業活動の権利が与えられました。そのため、祇園社に公認を受けた感謝のあかしに山鉾を建造し、祇園祭を盛り立てたとも考えられています。

出典:京都新聞コラムより抄録
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▲狩野永徳筆『洛中洛外図屏風(1565年頃)』に描かれた祇園会, パブリック・ドメイン, Wikipedia

江戸時代には、京都で発生した大規模な火災によって、祇園祭も大きな被害を受けました。

  • 1708年(宝永5年)宝永の大火
    山鉾も素朴な形式であったために早く復興。
  • 1788年(天明8年)天明の大火
    被害は大きく、函谷鉾は復興に50年を要した。
  • 1864年(元治元年)禁門の変、どんどん焼け
    山鉾町に多大な被害をもたらし、ほぼ無事だったのは長刀鉾・函谷鉾・月鉾・岩戸山・霰天神山・伯牙山・保昌山。菊水鉾・大船鉾・綾傘鉾・蟷螂山・四条傘鉾は長期間断絶した。

・明治時代→ 現在

  • 明治10年(1877年)太陽暦の採用により祭日が7月17日と24日に改定。
  • 明治19年、20年、28年 (1886、1887、1895年)にコレラが流行。その影響で祇園祭は延期。
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▲1920年代の祇園祭 By born1945 CC 表示 2.0, Wikipedia
  • 第二次世界大戦で4年間の中断。
  • 昭和28年(1953年)菊水鉾が90年ぶりに復興。1980年代には中絶していた「休み山」(焼山)が次々復興。
  • 昭和41年~平成25年 (1966年~2013年)前祭・後祭を統合した合同巡行。※高度経済成長期の交通事情の悪化が理由
  • 平成26年(2014年)後祭が再開。

平成21年(2009年)には「京都祇園祭山鉾行事」がユネスコ無形文化遺産に登録され、1000年を超える祇園御霊会の伝統、古式を保つ努力が続けられています。

ミィコ

明治時代のコレラ流行の原因は、さすがに怨霊の祟りではなくなっていますね^^ 衛生環境の改善のために様々な対策がとられたそうです。

【4】祇園祭と神幸祭

1カ月間にわたり様々な行事が行われる祇園祭。その中のクライマックスと言えば、山鉾巡行を思い描く人が多いと思います。

しかし、本来の意味から言うと、祇園祭の一番重要な神事は「神幸祭」なのです。

八坂神社から御祭神をお遷しした3基の神輿が、洛中を巡行しながら四条寺町の御旅所へ渡御、還幸祭で再び洛中を巡り八坂神社に戻ります。

豪快で荒々しいスタイルが特徴で、3基の神輿を総勢1000人以上の男達により担ぎ揉まれて神輿が暴れ狂う光景は迫力いっぱいです!

祇園祭 神輿
▲八坂神社の拝殿でスタンバイ中の神輿 7月14日

三基の神輿にお遷しする御祭神は、現在と昔では西と東が入れ替わっているそうです。

祇園御霊会の時代
・中御座 牛頭天王(=スサノオノミコト)
・東御座 八王子(子=ヤハシラノミコガミ)
・西御座 頗梨采女(妻=クシナダヒメノミコト)
 ↓
現在の祇園祭
・中御座(六角形)スサノオノミコト
・東御座(四角形)クシナダヒメノミコト
・西御座(八角形)ヤハシラノミコガミ

・神幸祭は17日夕刻から

八坂神社石段下で18時頃から出発式が行われ氏子区域内を巡行します。優雅な山鉾巡行とは対照的に、勇壮な熱気にあふれます。

還幸祭は24日夕刻から

四条御旅所に滞在していた神様が八坂神社に還る神事です。

3基の神輿は16時頃から出発、それぞれのコースを巡行し、神泉苑の南にある三条又旅社で神饌を供える「奉饌祭(ほうせんさい)」をとり行った後、八坂神社へ戻ります。

そして、24時頃から境内で厳かに「御神霊遷し(みたまうつし)」が行われ、神輿にのせられた御祭神を本殿にお遷しします。

ミィコ

祇園祭は多くの行事が目白押しで、すべてを見ることは不可能だと思われます。興味あるポイントから攻める、スケジュールから決める、などなど、自分にあった方法でお楽しみください!

【5】祇園祭 楽しみ方

祇園社の神輿の渡御から始まった祇園御霊会(祇園祭)。幾多の困難を乗り越えて、1100年以上続く華麗なお祭りです。

厄除け粽をはじめとして、手ぬぐいや、この時期しか買えない山鉾町グッズなども色々用意されているので、ちょっとレアな京都土産が見つかるかも。

・宵山、宵々山、宵々々山

前祭(さきまつり):7月14日~16日
後祭(あとまつり):7月21日~23日


祇園囃子が流れる町の日が暮れて、駒形提灯が灯る山や鉾を鑑賞できる宵山。町会所には山鉾の御神体(人形)や懸装品(織物など)が展示されます。

同時に、山鉾町の旧家では、表の格子をはずし秘蔵の屏風などを飾り付けた座敷を開放する「屏風飾り(屏風祭)」も行われます。

夏祭りの風情あふれる宵山。夕涼みといきたいところですが、京都は無理です。蒸し暑いし、人も多いし、覚悟してお出かけください。ちなみに、宵々々山が比較的空いています。

祇園祭の屋台・露店
毎年7月15日・16日の宵山(前祭)に立ち並びます。営業時間は、昼頃から夜遅くまでのお店が多いです。 出店場所は下記の場所あたりになります。

・烏丸通(三条通から蛸薬師通周辺)
・室町通(山伏山から白楽天山周辺)
・新町通(放下鉾から岩戸山周辺)

※後祭の宵山は、屋台・露店はありませんが、22日、23日エコ屋台村が行われます。

・厄除け粽

本家本元 八坂神社の厄除け粽はもちろん、山鉾それぞれに趣向を凝らしたデザインの粽も販売されます。定番の厄除け(長刀鉾、月鉾、船鉾、函谷鉾、他)をはじめとして、縁結び・夫婦円満・商売繁盛・不老長寿など、山鉾由来のご利益にあわせた粽もあります。

沢山の種類があるので、きっと今の自分に合った粽が見つかるのではないでしょうか。また、売り切れ終了となりますので、事前にリサーチして早めに買い求めるのが確実です。

粽が買える期間

  • 前祭:7月14日~16日。13日から販売の山鉾も有り。
  • 後祭:7月21日~23日。

粽の飾り方と返納方法

  • 厄除けの目印なので、玄関先など目につきやすい場所に飾ります。
  • 粽は1年間飾ったら翌年返納します。各山鉾の返納箱、八坂神社、近くの神社にお返ししてもOKです。
厄除け粽
▲厄除け粽 複数飾られているお家もあります

・山鉾町ご朱印集め

前祭・後祭、それぞれの宵山期間中のみいただける、各山鉾の趣向を凝らしたデザインの限定ご朱印(朱肉のスタンプ)もあります。

祇園祭限定の御朱印帳も販売されるので、お気に入りを見つけて、山鉾めぐりのお供にするのも記念になる楽しみかたの一つですね。

基本情報

授与場所  各山鉾町の会所
授与期間  ※山鉾により時間は多少前後します。
前祭 7月14日~16日 10:00~23:00
後祭 7月21日~23日 10:00~23:00
料金 志納、無料~300円くらい
※山鉾により別途料金が必要な場合あり。

祇園祭 鉾の御朱印
▲御朱印のサンプル

・山鉾巡行

前祭(さきまつり):7月17日 9:00~
後祭(あとまつり):7月24日 9:30~


華麗な山鉾が京都の町を巡行します。前祭は四条烏丸から、後祭は烏丸御池から出発。山や鉾は「動く美術館」とも呼ばれ、懸装品と呼ばれる装飾品で飾りつけられた豪華絢爛な美しさも見所です。

鉾の重量は、人や懸装品を含めて10トンを超える物もあり、人力で方向転換する辻回しは、巡行の最大の見どころの一つ。ただ、辻回しのある交差点は人気スポットなので、よほど早い時間に行って場所を確保しないと、たどり着けません。

辻回しにこだわらなければ、割と近くで見ることが出来たりしますが、絶対しっかり見たい方は、有料観覧席をゲットしてください。

※御池通には全席指定の有料観覧席が設けられます。

・その他

祇園祭は1カ月間わたり、様々な行事が行われます。
行事のスケジュールは、祗園祭山鉾連合会のサイトでご確認ください。

公益財団法人 祗園祭山鉾連合会 公式サイト

ミィコ

祇園祭は多くの行事が目白押しで、すべてを見ることは不可能だと思われます。興味あるポイントから攻める、スケジュールから決める、などなど、自分にあった方法でお楽しみください!

【6】八坂神社 アクセス

四条通りの東端に鎮座されています。西楼門が目印です。

[地図]
A地点:阪急京都線「京都河原町駅」
B地点:京阪本線「祇園四条駅」
C地点:八坂神社 北楼門

・最寄り駅から

  • バス停「祇園」下車すぐ
  • 京阪電車「祇園四条駅」6、7出口から東へ徒歩約5分
  • 阪急電車「京都河原町駅」1A、1B出口から東へ徒歩約8分

・京都駅から

  • 市バス
    ★京都駅前バスターミナルのりば案内
    [D1のりば]
    市バス 100 清水寺・祇園・銀閣寺行き
    市営急行 110 祇園・平安神宮行き
    [D2のりば]
    市バス 206 祇園・北大路バスターミナル行き
    ※祇園まで約18分
  • TAXI 所要時間 約11分/ 1,090円
    総距離 約3.3km タクシー料金検索
    ※料金・所要時間は実際とは異なる可能性があります。
ミィコ

八坂神社からは、高台寺や建仁寺、清水寺の徒歩圏内です!

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※この記事は、八坂神社公式サイト、Wikipedia、白川書院「祇園祭のひみつ」、梅原猛「京都発見」等を参考に作成しました。