御霊神社 [上御霊神社] | 応仁の乱発端の地。心をしずめる鎮霊のお社

上御霊神社の菊

御霊神社(ごりょうじんじゃ)は、かつて怨霊(=御霊)として恐れられた八所御霊(はっしょごりょう)を鎮魂する「鎮霊のお社(こころしづめ の おやしろ)」です。

平安遷都の際に、桓武天皇の勅願により、平安京の守り神として早良親王/崇道天皇(すどうてんのう)をお祀りしたのが始まりとされます。

通称は上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)。御所の東南に鎮座する下御霊神社(しもごりょうじんじゃ)と呼応し、両社とも京都御所の産土神(土地の守護神)として信仰されています。

西門前には、創業500年超えの門前菓子「唐板(からいた)」で有名な水田玉雲堂があります。日・祝は定休日なでご注意。

アクセス方法や御朱印、見どころをご紹介します。境内は応仁の乱発端の地としても有名です。

基本情報

御霊神社 [通称:上御霊神社]
所在地 京都市上京区上御霊竪町495番地
TEL.075-441-2260
社務所 9:00~17:00
御霊神社 京都府神社庁
御霊神社 公式facebook

【1】御霊信仰

本来、御霊(ごりょう)は“ミタマ”を意味しました。しかし平安時代になると、非業の死を遂げた者の“死霊・怨霊”へと意味が転化したのです。天変地異はすべて御霊の所業と考えられ、のちに御霊信仰に発展していきました。

・御霊(=怨霊)とは

奈良時代半ばまでに、王権中枢部では、権力抗争の末に敗死した特定の者の霊が怨みをもって現れるという観念がうまれつつありました。

政争に敗れて非業の死をとげた人間の霊は怨霊となり、憎悪する相手に激しく祟るというのです。

・御霊信仰のはじまり

奈良時代末期~平安時代初頭以降になると、王権反逆者の怨霊=祟り神(たたりがみ)は、荒御霊であり畏怖され忌避されると同時に、手厚く祀りあげることで強力な守護神となると信じられるようになりました。

政治都市だった京都に誕生した数えきれない怨霊。中でも別格の大物たちは「六所御霊(ろくしょごりょう)」と呼ばれ、その第一号が早良親王です。

人々は「怨霊」を敬意の念をこめて「御霊」と呼び 、怨霊の怨みの心を慰め鎮めるための「御霊会」と呼ばれる法会を、賑やかに華やかに営み疫病退散を祈りました。

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御霊界のNo.1、早良親王(崇道天皇)は、平安京の大極殿の鬼門(北東)にあたる上高野の「崇道神社」にもお祀りされています。

【2】御霊神社とは

御霊神社は桓武天皇の勅願により、平安京の守り神として当時最強の御霊(怨霊)として恐れられた早良親王(崇道天皇)をお祀りしたのが始まりです。

その後も、政争に巻き込まれて非業の死をとげた人の御霊が合祀され(八所御霊)、強力な守護神として皇室はもとより御所の守護神・産土神として庶民からも篤く崇敬されました。

現在も毎年5月には、1,000年以上の伝統がある「御霊祭」が執り行われます。

上御霊神社 鳥居
▲御霊神社 西門

・御霊神社の前身は出雲寺

かつて、このあたりの地域は上出雲・下出雲と呼ばれ、 白鳳時代から出雲氏の人々が集落を営み、7、8世紀頃に出雲氏の氏寺「出雲寺(上出雲寺)」が創建されたと考えられています。

平安時代に早良親王が供養されたのは「上出雲寺 御霊堂」と「下出雲寺 御霊堂(現在の下御霊神社)」との記録があるそうです。

創建や変遷の詳細は不明。現在の御霊神社は、室町時代までは「上出雲寺 御霊堂」の名称で知られていました。

・御霊神社の歩み

  1. 平安時代
    延暦13年(794年)平安遷都の際、桓武天皇の勅願により早良親王を「上出雲寺 御霊堂(現在の御霊神社)」で供養したと伝わります。
    貞観5年(863年)神泉苑で「御霊会」が行われました。
  2. 鎌倉時代
    上出雲寺 御霊堂は「御所の産土神」「禁裏産土神」として信仰を集めます。
  3. 南北朝時代~室町時代
    朝廷の篤い崇敬を受け、至徳元年(1384年)に正一位の神階を授かります。
    応仁元年(1467年)境内の御霊の森で応仁の乱の前哨戦「御霊合戦」勃発。
    文明10年(1478年)焼失。「御霊祭」もその後30 年あまり休止。
    その後、足利氏により再建。
  4. 安土桃山時代~江戸時代
    毎年正月に御所より歯固の御初穂の寄進。※歯固(はがため)は宮中行事の一つ。
    天正13年(1585年)神殿造営。『社記』
    天正年間(1573-1592年)、宝永年間(1704-1710年)、享保年間(1716-1735年)、宝暦年間(1751-1763年)社殿修造に際し内侍所仮殿が下賜されました。
    1723年、1729年、第112代・霊元天皇が行幸。
    1733年、1755年、内裏賢所御殿を下賜されました(現在の本殿)。
  5. 明治時代
    明治元年(1868年)、神仏分離令後の廃仏毀釈以後、境内にあった観音堂、鐘堂などが撤去されました。
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最初はお寺だったとは! 神仏習合の歴史がからんでいそうです。それにしても歴史的な資料の多くを焼いた応仁の乱は罪深いですね。

【3】御祭神と御利益

御霊信仰の御祭神がお祀りされています。
平安時代に多発した疫病災厄は怨霊の祟りだと恐れられました。その怨霊を「六所御霊/のちに八所御霊」としてお祭りし、災禍から守っていただくのが御霊信仰です。

・御祭神は八所御霊を含む13座

現在の御祭神は八所御霊を含む13座です。

  • 本殿八座 [六所御霊を含む八所御霊]
    ・崇道天皇(早良親王)|光仁天皇第2皇子
    ・井上内親王|光仁天皇皇后
    ・他戸親王(オサベシンノウ)|光仁天皇第四皇子
    ・藤原大夫人(藤原吉子)|桓武天皇の夫人
    ・橘大夫(橘逸勢命)|平安時代初期の貴族
    ・文大夫(文屋宮田麿命)|平安時代初期の貴族
    ・火雷神(カライシン)|六所御霊の荒魂
    ・吉備大臣(吉備真備)|奈良時代の公卿?諸説あり
  • 相殿五座
    ・相殿:三社明神(小倉実起、小倉公連、中納言典待局(小倉実起の娘)、小倉季判)
    ・若宮:和光明神(菅原和子)

上下御霊神社の御祭神のうち六所御霊(崇道天皇・藤原大夫人・橘大夫・文大夫・火雷神/火雷天神・吉備大臣/吉備聖霊)は共通ですが、あと2所の御祭神は異なり、上御霊神社は井上内親王・他戸親王、下御霊神社は伊豫親王・藤大夫です。

・御利益

疫病除けなど厄除けの御利益で篤く信仰されてきた神社です。

  • 厄除(厄払い、病気平癒、交通安全、旅行安全)
  • 家内安全・家業繁栄、安産、学業成就・書道上達
  • こころしずめ
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御祭神「六所御霊」のうち、吉備大臣は上下御霊神社で解釈が異なっています。

【4】御霊神社 見どころ

見どころは、楼門・本殿・拝殿・四脚門など。これらの建築物は近年修繕が行われたので美しいです。特に本殿は、皇居の賢所(かしこどころ)御殿を下賜されたもので貴重です。

境内は、応仁の乱の発端地となった「御霊の森」の面影を感じさせる木々に囲まれています。

・楼門(西門)

江戸時代中期・寛政年間の再建。
それ以前の楼門の姿は江戸初期に描かれた京名所絵(寛文~元禄・ビクトリア&アルバート博物館蔵)によると、現在より少し小ぶりで朱塗りだったそうです。

上御霊神社 楼門
▲御霊神社 楼門(西門)

・本殿

本殿は、享保18年(1733年)に下賜された内裏賢所御殿。昭和45年(1970年)に復原。

賢所とは?
皇位継承の証である三種の神器のひとつ、皇祖・天照大御神の御霊代として祀られる八咫鏡(やたかがみ)が奉斎されている宮中の御殿です。内侍所(ないしどころ)ともいいます。
現在も宮中賢所に鎮祭されている八咫鏡。祀られていた御殿を社殿用に賜るのは畏れ多い事でした。このような例は、上下御霊神社、藤森神社のみになります。

上御霊神社 本殿
▲本殿
上御霊神社 拝殿
▲拝殿

・応仁の乱 発端の地(石碑)

戦国時代の幕開けとなった応仁の乱は、応仁元年(1467年)に御霊神社境内の御霊の森に陣を構えた東軍(畠山政長)を西軍(畑山義就)が襲撃した「御霊合戦」が発端となりました。

11年にわたる戦乱は、勝敗のつかないまま西軍が解体され収束しましたが、主要な戦場となった京都全域は壊滅的な被害を受けました。罹災を免れたのは土御門内裏などわずかで、寺社や公家・武家邸の大半が消失したため、歴史的資料の多くが失われました。

石碑の文字は東軍の総大将・細川勝元の子孫で元首相の細川護熙氏。

上御霊神社 応仁の乱石碑
▲御霊合戦の石碑

・四脚門(南門)

伏見城の遺構である四脚門(しきゃくもん)を元和9年(1623年)ごろ移築。梁の上の両側に豊臣氏の家紋である五三桐の透かし彫りがあります。昭和45年に檜皮葺きから銅板葺きに葺き替え。

上御霊神社 南門
▲南門
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神社の境内は、かつてあったという御霊の森の名残りを感じさせる木々に囲まれています。

【5】御朱印

御霊神社の御朱印は、紋菓(落雁)付きです。御神紋は「有職桐」。
今回は特別御朱印を拝受しました。御車図は、令和元年5月1日に54年ぶりに復活した神幸祭を記念して、由里本 出 画伯が描かれたもの。御霊祭御神輿の先導を務める御車は、約400年前に後陽成天皇より拝領したものだそうです。

上御霊神社 御朱印
▲御霊神社特別御朱印
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通常の御朱印もありますが、参拝した日は、コロナ禍対策で御朱印帳へ直書きは休止中でした。おまけ?に「疫神退散祈願」の御札もいただきました。

【6】御霊神社 アクセス

アクセスは、地下鉄がおすすめ。

最寄り駅

  • 地下鉄烏丸線「鞍馬口駅」 楼門(西門)まで徒歩約3分。
  • 京都市バス「出雲路俵町」 南門まで徒歩約6分。

[地図]
B地点:御霊神社(上御霊神社)

A地点:地下鉄烏丸線「鞍馬口駅」1番出口
C地点:バス停「出雲路俵町」

・京都駅から

  • 地下鉄烏丸線 国際会館行に乗車「鞍馬口駅」下車。乗車時間:約11分。1番出口から徒歩約3分。

・三条京阪から

  • [A3のりば] 市バス37 系統 北大路バスターミナル・西賀茂車庫行に乗車「出雲路俵町」下車。乗車時間:約15分。バス停から南門まで徒歩約6分。

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御霊神社から下御霊神社を参拝する場合は、地下鉄烏丸線「丸太町駅」で降りて東へ徒歩約10分です。

※この記事の史実に関する記載は、京都府神社庁公式サイト、御霊神社駒札、Wikipedia、コトバンク等を参考に作成しました。