瑞泉寺 | 秀吉の命で抹殺された、豊臣秀次と一族を弔う寺院

瑞泉寺タイトル

瑞泉寺(ずいせんじ)は、豊臣秀吉によって抹殺された豊臣秀次とその一族に鎮魂の祈りをささげる菩提寺です。

このあたりは、江戸時代のはじめまでは鴨川の中州で、処刑や晒し首が行われる「三条河原」と呼ばれた処刑場でした。文禄4年(1595年)には、豊臣秀次の妻子侍女など39名も公開処刑されました。

この記事では、秀次事件の16年後に京都の豪商・角倉了以(すみのくら りょうい)が瑞泉寺を建立した経緯を簡単にまとめました。あわせて、見どころや御朱印もご紹介します。

基本情報

瑞泉寺 [慈舟山 瑞泉寺] 
所在地 京都市中京区木屋町通り三条下ル石屋町114-1
TEL.075-221-5741
参拝時間 7:00~17:00 
境内無料
※閉門日(正月明け・お盆明けなど)は参拝できません。

瑞泉寺公式サイト

【1】冤罪? 秀次事件とは

豊臣秀吉の甥である豊臣秀次は、秀吉の養嗣子となり、天正19年(1591年)に関白の職を譲られ家督を相続しました。

しかし、2年後の文禄2年(1593年)秀吉と側室 淀殿の間に秀頼が誕生。秀吉は男子誕生を大変喜んだ反面、徐々に秀次の存在を疎ましく思うようになったようです。

文禄4年(1595年)秀吉は秀次に謀反の疑いをかけて切腹させ、妻子侍女など39名も三条河原へ運んだ秀次の首の前で公開処刑するという残酷な仕置を行いました。

豊臣 秀次(とよとみ ひでつぐ)[1568~1595年]
安土桃山時代の武将。秀吉の甥。父は三好吉房,母は秀吉の姉。賤ケ岳の戦い・四国平定に功あり,近江43万石を領した。
1591年秀吉の長男鶴松の死後,その養子となり関白となった。’93年秀吉に秀頼が生まれて不和となり,秀吉の命により高野山に追放され,切腹。妻妾・子弟30余名も京都三条河原で殺された。

出典:旺文社日本史事典

・秀吉の世継ぎ問題が原因の一つ?

  1. 天正17年(1589年)時の関白・豊臣秀吉が53歳の時、側室の淀殿との間に嫡男・鶴松を授かります。しかし天正19年(1591年)鶴松が2歳で死去。
  2. 世継ぎがいなくなったことから、秀吉は甥の秀次を養嗣子に迎え、実権を握りつつ関白職と家督を譲りました。
  3. 文禄2年(1593年)57歳の秀吉と淀殿に第二子・秀頼が誕生。

    秀吉は、秀頼と秀次の娘を婚約させ、いずれ秀頼へ政権継承させる?等の方法も模索したようですが、次第に秀次と不和になり、疎んじるようになりました。

・秀次は切腹、一族39名も公開処刑

  1. 文禄4年(1595年)6月末、突然、秀次は謀反の疑いで高野山青巌寺に蟄居させられ、秀次の一族39人も丹波・亀山城に閉じ込められます。そして7月15日に秀吉の命で秀次は家臣と共に切腹しました。28歳歿。
  2. 7月16日、秀吉は伏見城で使者が持ち帰った秀次の首を検分。しかし、それだけでは満足できず、係累の根絶を指示します。
  3. 7月31日、秀次の一族は亀山城より京都に戻され、8月1日に処刑の通達が出されます。一同は辞世の句を残したり身支度をしました。
  4. 8月2日、市中引き廻しの後、午後から三条河原で公開処刑。西向きに据えられた秀次の首の前で、1歳から9歳の幼子(男児4名、女児1名)は刺殺、正室・側室・侍女・乳母ら34名は斬首されました。処刑は数時間に及び、鴨川が血で染まったと伝わります。

    遺体は縁者に下げ渡すことを許されず、刑場の脇に掘った大穴に投げ込まれました。処刑後は見せしめに大きな「塚」が築かれ、頂上の「石びつ」には秀次が切腹した7月15日の日付とともに「悪逆塚」の文字が刻まれ、秀次の首が納められました。
  5. 人々はこの塚を「殺生塚(摂政関白の塚の転意」と呼んだそうです。秀吉を恐れて花を手向ける者もなく、いつしか鴨川の氾濫で塚は壊れ荒廃していきました。

そして ‥15年後‥ 京都の豪商・角倉了以が瑞泉寺の建立を決意。

豊臣秀次と幼子・妻を含む一族は、どんな理由によって粛清されたのでしょうか?
真相は曖昧なままで、幾つかの仮説が存在するのみだそうです。

とはいえ、秀次らが抹殺されるとすぐに、わずか3歳の秀頼が豊臣家の後継者になったのです。秀頼に家督を譲るために秀次が邪魔になった事は大きな理由の一つだと推測されます。

さらに秀吉は、秀次の痕跡も消し去るため、聚楽第や近江八幡山城の破却を命令。聚楽第の堀は埋め戻され徹底的に破壊され、周囲の諸侯の邸宅も同時に取り壊されました。現在の京都に、聚楽第の遺構がほとんど残っていないのはこのためだそうです。

瑞泉寺 資料
▲殺生塚(瑞泉寺資料室のパネルより)
ミィコ

この事件、秀頼が生まれた事は絶対関係してますよね。それにしても、秀次の痕跡まで消そうとするなんて狂気を感じます‥

【2】瑞泉寺の建立

京都の豪商・角倉了以が建立した瑞泉寺。

ここは、かつては三条河原の中州で、秀次一族の遺体が埋められた「殺生塚」があった場所になります。

現在、高瀬川と鴨川の間は、木屋町(きやまち)として整備され中州はありません。

瑞泉寺 表門
▲瑞泉寺 表門

・角倉了以と瑞泉寺の歩み

瑞泉寺は秀次事件から16年後の慶長16年(1611年)、京都の豪商・角倉了以と、浄土宗西山禅林寺派の和尚・立空桂叔によって創建されました。

  1. 慶長15年(1610年)に豊臣秀頼による「大仏殿方広寺」の再建が決まり、建築資材運搬のための水運を確保するため、角倉家に「高瀬川」開削工事の許可がおります。
    高瀬川掘削の際に「秀次悪逆塚」と刻まれた石びつが発見され、秀次と一族に深く同情していた角倉了以は荒廃しきっていた墓域を整理することを決意しました。
  2. 慶長16年(1611年)角倉了以は立空桂叔(開山)と共に、散乱していた遺骨を集め、塚の側に「秀次公御一族の墓石」(現在の墓所)を建立、塚の跡には「瑞泉寺」の創建を意味する小さな庵を建てました。
  3. 天和3年(1683年)瑞泉寺第4世 敬屋上人の代に角倉家より新たに寄進を受け、本堂をはじめ現在規模に近い堂宇が完成します。
  4. 天明8年(1788年)天明の大火で堂宇を焼失しますが、御本尊や道具類は避難して無事でした。
  5. 文化2年(1805年)再建され現在に至ります。

角倉了以(すみのくら りょうい) [1554―1614年]
安土桃山時代から江戸初期にかけての京都の豪商,海外貿易家。本姓吉田,名は光好(みつよし)。1592年豊臣秀吉から朱印状を得て角倉船と称する400人乗りの朱印船をアンナン(安南)に派遣し貿易を行った。また大堰(おおい)川,高瀬川を開削し,富士川,天竜川の治水等国内の土木開発事業にも貢献。

出典:百科事典マイペディアより抄録

・角倉了以の実弟は秀次の家臣

角倉了以の実弟「吉田宗恂(そうじゅん)」は、豊臣秀次に医師として仕え、第107代・後陽成天皇の病気に献薬し法印に叙せられています。

宗恂は秀次事件の連座はまぬがれ、後に徳川家康に召され本草研究の顧問をつとめ、慶長15年(1610年)に亡くなりました。偶然にも「瑞泉寺」の創建は「吉田宗恂」の一周忌の年にあたります。

・秀次と一族の鎮魂を祈る

寺名「瑞泉寺」は、創建時に京極誓願寺の教山上人が新たに豊臣秀次公に贈った法名「瑞泉寺殿高巌一峰道意」に由来し、山号「慈舟山(じしゅうざん)」は、高瀬川を往来する船にちなんで命名されました。

事件から16年、ようやく秀次と一族が弔われる場所が出来たのです。

しかし、寺は江戸時代から昭和時代まで参拝者は少なく苦難の時代が続いたそうです。秀吉の思惑通り「秀次=悪人」のイメージが定着していたようです。

時は下り、秀吉没後350年にあたる昭和16年(1941年)に、財団法人「豊公会」が、秀次の妻子・家臣など49名の石塔、地蔵堂の改修や京人形を奉納。

平成18年(2006年)にはNHK 大河ドラマ「功名が辻」で、秀次と一族の悲劇が扱われた事などが影響し、寺を訪れる人、特に女性の参拝者が増えたそうです。

ミィコ

悪意ある風評が拡散しやすいのは今も変わりませんね。情報源や真偽を確認するのは現代でも難しいわけで‥

【3】瑞泉寺 見どころ

瑞泉寺の境内は美しく整えられ、季節の花が咲いています。

地蔵堂の引導仏と境内奥の豊臣秀次と一族のお墓は必見です。秀次とその一族を弔った人々の思いが伝わってきます。

・本堂

表門を入って右奥にあるのが本堂です。かつては、この場所に「殺生塚」がありました。

了以は、瑞泉寺・代々継請録の冒頭に「思フニ、此ノ地ハモッテ民屋(民家)トナスベカラズ。和尚ト相議シテ堂宇ヲタテ、瑞泉トナズク。」と記しているそうです。

後に堂宇は天明8年(1788年)の大火で焼失しますが、本尊や道具類は避難して無事でした。文化2年(1805年)に再建されて現在に至ります。

ご本尊の阿弥陀如来立像は、外から参拝できます。

瑞泉寺 資料
▲奥が本堂です。
瑞泉寺 本堂
▲本堂

・豊臣秀次と一族の墓

境内の奥にあります。中央に豊臣秀次の墓、左右に一族の石塔がずらっと並んでいます。

一見わかりにくいですが、秀次の墓石の正面中央には、秀次の首を納めて塚の上に据えられていた「石びつ」が安置されています。発見された時は、切腹した7月15日の日付の他に「秀次悪逆塚」の文字が刻まれていましたが、了以によって削り取られたそうです。

瑞泉寺 豊臣秀次と一族の墓
▲豊臣秀次と一族の墓。
瑞泉寺 豊臣秀次の石棺
▲中央に、石びつ。

・地蔵堂

本堂前にある地蔵堂に安置されている地蔵菩薩立像は、三条河原での処刑の際、生前秀次公と親しかった浄土宗寺院・大雲院の貞安(ていあん)が、秀次の首の前に置いた引導仏です。

優しい顔立ちと流麗な造形が美しい鎌倉時代の仏像で、処刑前の女性たちの慰めとなったと伝わります。通称、引導地蔵と呼ばれています。

左右の脇檀に安置されているのは昭和16年(1941年)に財団法人「豊公会」が奉納した京人形。寺宝「秀次公並びに御一族」に描かれた女性と子ども、殉死した主な家臣の像を写して作られました。

瑞泉寺 地蔵殿
▲地蔵堂
瑞泉寺 地蔵殿
▲地蔵菩薩と京人形。

・瑞泉寺 資料室

表門を入って左手にある資料室(休憩所?)には、秀次事件、瑞泉寺に関連する新聞記事や、寺宝の写真などが展示されています。瑞泉寺の縁起を記した無料のプリントやパンフレット(有料100円)も用意されています。

ちなみに、所蔵されている寺宝は、京都国立博物館や京都市歴史資料館に寄託されているので、通常は見ることが出来ません。過去の寺宝展の写真は下記LINK参照。

秀次公縁起」(京都国立博物館)
瑞泉寺絵縁起」(京都市歴史資料館)
辞世和歌、瑞泉寺裂」(京都国立博物館)
秀次ゆかりの品々」他、多数。

瑞泉寺 境内
▲左手が資料室
瑞泉寺 資料室
▲ベンチで休憩も出来ます^^
ミィコ

瑞泉寺の寺宝展、次回開催される時は是非本物を見てみたいです。

【4】御朱印

本堂前に置かれた台の上に用意されています。御朱印帳への記入はされていません。

日付けは自分でスタンプを押して、志納金300円~はお賽銭箱に入れるスタイルです。お釣りはもらえませんので、小銭を用意しておきましょう^^

瑞泉寺 御朱印
▲御朱印の台
瑞泉寺 御朱印
▲瑞泉寺 御朱印

ミィコ

今どきなフォントやイラストが印象的な御朱印です。自分で日付スタンプを押すのはちょっと緊張しました^^

【5】瑞泉寺 アクセス

瑞泉寺の所在地は京都の中でも賑やかな繁華街・河原町三条のすぐ近くです。

・最寄り駅から

瑞泉寺の表門は、高瀬川の東側、木屋町通りにあります。

  • 京都市バス「河原町三条」から徒歩4分。
  • 京阪本線「三条駅」から徒歩5分。
  • 地下鉄「三条京阪駅」から徒歩8分。
  • 阪急京都線「京都河原町駅」から徒歩10分。

[地図]
C地点:瑞泉寺
A地点:地下鉄「三条京阪駅」
B地点:京阪本線「三条駅」
D地点:阪急京都線「京都河原町駅」

・京都駅から

  • 京都駅前バスターミナルのりば案内
    市バス [A2のりば] 市バス205系統 四条河原町・北大路バスターミナル行に乗車「河原町三条」下車。乗車時間:約16分。
  • 地下鉄烏丸線 国際会館行に乗車「烏丸御池駅」下車。[乗換え]→地下鉄東西線(御陵・六地蔵/びわ湖浜大津行)乗車「三条京阪駅」下車。所要時間:約14分。
  • TAXI 所要時間 約10分
    総距離 約3km タクシー料金検索
    ※料金・所要時間は実際とは異なる可能性があります。
ミィコ

瑞泉寺の周辺は京都でも特に賑やかな繁華街。バスは渋滞で時間がかかることもあるので、電車がおススメです。

※この記事の史実に関する記載は、瑞泉寺公式サイト、パンフレット、駒札、産経新聞記事、Wikipedia等を参考に作成しました。