くろ谷・金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、鎌倉時代の僧・法然(ほうねん)が日本で初めて浄土宗の布教をはじめた場所です。
山門の扁額も後小松天皇の宸翰(しんかん)「浄土真宗最初門」。天皇のお墨付きですね。
浄土宗七大本山の一つで、浄土宗総本山・知恩院とならぶ格式を誇ります。
近年は、ひっそりたたずむ五劫思惟阿弥陀仏(ごごうしゆい あみだぶつ)も人気。この仏様は世間では親しみを込めて「アフロ仏」とも呼ばれています。
江戸時代末期に新選組発祥の地になった歴史や、見どころ・御朱印・アクセス方法をご紹介します。
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【1】金戒光明寺の由緒
金戒光明寺は、法然が浄土宗の布教をするため、比叡山から下りて最初に営んだ草庵からはじまります。通称「くろ谷(くろだに)さん」と呼ばれています。
・黒谷の由来
- 比叡山延暦寺 西塔北谷にある地名。大黒天出現の地という伝承から大黒谷と呼ばれていたのが黒谷になったといいます。「黒谷」は比叡山の中でも、俗世と関わりを断ち切る隠遁の地として知られ、法然は18歳で黒谷の僧 叡空に師事し20年間修行しました。
- 法然が初めて念仏道場を開いた白河禅房(現・金戒光明寺)は、比叡山黒谷の所領で、叡空入滅の際に法然に譲られました。そのため、比叡山の黒谷は「元黒谷」、この地は「新黒谷」と呼ばれました。
- 「新黒谷」も、やがて「新」がとれて黒谷と通称されるようになりました。
・紫雲山 金戒光明寺の由来
- 承安5年(1175年)法然は浄土宗の布教を決心し比叡山を下りました。
叡空から譲り受けた白河禅房がある地で見かけた大きな石に腰掛けると、その石から紫雲が立ち上り、西の空に金色の光が放たれ、金色に輝く善導が表れたといいます。
その現象を瑞相(=吉兆)ととらえた法然は、確固たる決意のもと叡空から譲り受けた白河禅房を念仏道場とし、山号を「紫雲山」と命名しました。 - 法然没後も浄土宗の念仏道場として繁栄、第5世の時代に初めて仏堂や御影堂が整えられ、開創の際の瑞相により「紫雲山 光明寺」と命名されました。
- 第8世 運空の時代、後光厳(ごこうごん)天皇の戒師を勤めたことから、金戒の二字を賜り「金戒光明寺」となりました。
・金戒光明寺のあゆみ
- 金戒光明寺となった後、第9世・僧然定玄の時、清浄華院(しょうじょうけいん)を兼帯。以来、兼任・退隠が続き清浄華院の末寺になりました。
- 室町時代・1428年、第10世 恵照等煕による再興が始まり、後小松天皇から「浄土真宗最初門」の勅願を賜ります。しかし、応仁・文明の乱(1467-1477)で、ほとんどの堂舎を焼失、その後衰微。
- 安土桃山時代・1585年、羽柴秀吉によって寺領130万石の朱印状が出されます。
- 江戸時代になると、浄土宗四箇本山の一つとして、知恩院に次いで繁栄。
1605年 豊臣秀頼が阿弥陀堂再建。
1610年 清浄華院から独立。
1613年 御影堂焼失。
1634年 徳川秀忠の菩提を弔う三重塔建立。
1776年 御影堂、大方丈、庫裏などを焼失し、寛永年間(1789-1801)に再興。
1860年 山門建立。
1862年 京都の治安維持、警護のために京都守護職の本陣が置かれました。 - 近代、1868年(明治元年)京都守護職が廃止。
1934年、本堂、勅使門、大方丈などを焼失。1936年に大方丈、1944年に本堂再建。
光り輝く吉兆の夢、一度みてみたいものです^^
【2】法然と浄土宗
法然は日本の浄土宗の開祖。
南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と唱えるだけで救われるというシンプルな専修念仏の教えは、武士や農民に受け入れられ順調に信者が増えますが、既存仏教教団の激しい弾圧や土佐配流などの苦難にさらされます。
しかし、法然は逆境に屈することなく高齢になっても精力的に布教つづけ、80歳で没した後も専修念仏はさらに広まっていきました。
・法然とは
平安時代末期の長承2年(1133年)生まれ。
天養2年(1145年)13歳で出家し、学生(がくしょう)三千人と言われた比叡山の中でも、若くして「智慧第一(ちえだいいち)」とうたわれた超エリート僧。
ところが本人は、戒律もろくに守れない、一つの修行も満足に成し遂げられない、ダメな自分を厳しく見つめることに終始したといいます。
そして「仏の慈悲は、本当に困っている人、煩悩に満ちた罪深い者(法然自身を含む)こそが救われなければならない」とさらなる求道へ突き進みます。
承安5年(1175年)43歳の時に中国浄土教の高僧・善導 [613-681] の著書「観経疏(かんぎょうしょ)」に出会い、専修念仏こそすべての人々が救われる教えであると確信し、新しい宗派「浄土宗」を開きました。
法然 [1133-1212年]
出典:平凡社百科事典マイペディアより抄録
鎌倉初期の僧。浄土宗の開祖。諱(いみな)は源空,勅諡(ちょくし)は円光大師など。1147年比叡山で源光の門に入り,天台を学んだが,1150年教学などに対する疑問を生じ,西塔黒谷の叡空のもとに隠棲し,法然房源空と称した。以後20年間修学,善導の《観経疏》によって,称名念仏に専修する悟りに達した。のち,東山の吉水に草庵を結び,老若貴賤を問わず教化した。
1186年天台の学匠顕真と専修念仏について議論(大原問答)し,女官の出家を契機として南都北嶺の迫害を受け,1207年土佐(実は讃岐)に配流された。その思想は《選択本願念仏集》に最もよく表現され,至誠心,深心,回向発願心の三心によって,老若貴賤,修行の多寡など問題なく,阿弥陀仏によって救われるとした。
門下に聖光,源智,証空,親鸞などを出し,日本浄土教の発展の基礎となった。
・浄土宗とは
浄土宗の教えは、阿弥陀仏を素直に信じて「南無阿弥陀仏」と、となえ、悩みや苦しみのない世界(極楽浄土)を願うというものです。
阿弥陀仏は、「あらゆる苦しみから離れたいと願うなら、私の名前を呼びなさい。そうすれば煩悩の有無などに関係なく、必ず極楽浄土へ迎え導きます」と誓われた仏様です。
浄土教(浄土思想)の歴史
- 1~4世紀に北西インドで発達。
- 中国では、東晋の慧遠 (えおん) を祖とし、隋・唐代の道綽 (どうしゃく) ・善導 (ぜんどう) らが大成。念仏を手段に民衆に広まり、唐代から禅宗と並び中国仏教の主流となりました。
- 日本では、平安時代中期に「往生要集」を著した恵心僧都(えしんそうず)が、日本の浄土教の祖と称されます(天台浄土教)。※往生要集:浄土教の観点より、仏教経典や論書などから重要な文章を集めた仏教書。
- 鎌倉時代、法然は「往生要集」によって7世紀の善導の浄土思想を知り、承安5年(1175年)浄土宗を確立し布教を開始しました。
浄土宗
出典:旺文社日本史事典 三訂版より抄録
平安末期,法然によって開かれた仏教の新宗派。
法然の説いた専修念仏の教えは,南無阿弥陀仏の念仏を数多く唱えれば,万人が浄土に往生できるというもので,他力易行 (たりきいぎよう) の宗といわれる。この平易な教えは平安末期の社会不安の中で救いを求める人びとの新しい信仰として,広く武士・庶民の間にうけ入れられた。開宗当初は,旧仏教の圧迫をうけたが,法然の死後,多くの流派に分かれて発展し,その中から浄土真宗・時宗が分立した。
難解な理論よりシンプルなコンセプトが支持されるのは、今も一緒ですね^^
【3】金戒光明寺 見どころ
高台にあるので京都の街を見わたせることが出来て気持ちいいです。幕末に京都守護職の本陣が置かれた理由にも思わず納得。
最近、注目されている「五劫思惟阿弥陀仏」は、仏像墓と呼ばれる個人のお墓です。御影堂からは少し離れているので、場所をチェックしてから参拝するのがおすすめです^^
・山門(三門)
正面に後小松天皇宸筆の勅額「浄土真宗最初門」が掛かっています。
山門は三門(三解脱門)の様式で、禅宗寺院以外で用いられているのは、浄土宗の金戒光明寺と知恩院だけです。
当初の山門は室町時代、応永年間(1398-1415年)に建立され、応仁・文明の乱(1467-1477年)で焼失。現在の山門は江戸時代、1860年の再建(京都府指定文化財)。
「浄土真宗最初門」とは、”日本で最初に浄土の教えの真実を広めた場所” という意味です。東・西本願寺などの宗派名(宗祖:親鸞)を表すものではありません。
・梵鐘(京都三大梵鐘)
元和9年(1623年)徳川家康の側室お六の方の寄進で建立されました(京都府指定文化財)。
「知恩院」「方広寺(京都大仏殿)」の梵鐘とともに京都三大梵鐘の一つです。
・御影堂(大殿)
御影堂(みえいどう)別名:大殿(だいでん)は、法然上人の御影を安置するお堂です。
内陣正面には法然上人が後白河法皇の皇女 如念尼公の為に自ら刻んだ75歳の三昧発得*(さんまいほっとく)の坐像がお祀りされています。*心安らかで深い静寂の状態に達した状態。
この木像は、広島県尾道市の光明三昧院に安置されていましたが、慶長17年の火災により影像を焼失した金戒光明寺の第26世 盛林上人が、徳川家康に懇願し譲り受けました。
現在の御影堂は、昭和9年(1934年)の焼失後、再建に向けて京都大学名誉教授・天沼俊一 博士が室町時代の様式で設計し昭和19年(1944年)に落慶したものです。
・阿弥陀堂
山内で最も古い建物です(京都府指定文化財)。慶長10年(1605年)豊臣秀頼により京都大仏殿造営の余材を利用して再建されました。
御本尊の阿弥陀如来は、僧・恵心僧都の最終作。如来の腹中に恵心僧都が愛用したノミが納められていることから「ノミおさめの如来」「お止めの如来」と称されています。
来迎門(後門)の釈迦如来像と天井の雲龍図は、海北友松の孫で画僧の専譽傳故の筆。来迎壁上方部に描かれた飛天等は、慶長10年建立当初のものです。
・三重塔(文殊塔)
三重塔(重要文化財)は、寛永11年(1634年)徳川2代将軍 徳川秀忠の菩提を弔うために建立されました。極楽橋から直進して石段を上がります。
塔内には、かつて黒谷の北西にあった中山宝幢寺(ほうどうじ)の本尊・文殊菩薩像が安置されていましたが、平成20年に御影堂に移されました。
・五劫思惟阿弥陀仏
一般的な阿弥陀仏の髪型は、パンチパーマのような螺髪(らほつ)。
五劫思惟(ごこうしゆい)阿弥陀仏は、螺髪がアフロヘアみたいな大きくなった髪型が特徴で、全国でも16体ほどしかない珍しい仏像です。江戸時代中頃の制作といわれます。
阿弥陀仏が生きとし生けるものを救済する四十八願をたてるため、気の遠くなるような長い時間(五劫)考え続けた(思惟)結果、髪が伸びてしまったお姿が表現されています。
三重塔への石段を10段ほど上がった左手におられます。
この仏様は、施主が亡くなった身内の方を永代に供養するために建立された「仏像墓」と呼ばれる個人のお墓です。※現在は本山の管理下にあります。
【公式】御影堂(大殿)から五劫思惟阿弥陀仏までの道順
・大方丈、庭園、その他文化財
数多くの文化財を所蔵されていて、特別公開で拝観できるチャンスがあります
大方丈、庭園
特別公開の期間に拝観できます。伊藤若冲「鶏図」、冨岡鉄斎「空山無人図風」が特別展示されることもあります。
法然上人 鏡の御影
鏡の御影と呼ばれる肖像画は、法然自身が鏡をみながら修正されたものと伝わります。毎年4月25日の命日の法要で内拝できます。
一枚起請文(法然上人真筆御遺訓)
法然が亡くなる2日前、門弟の源智の求めに応じて自ら筆をとり、浄土宗の教えである念仏の意味・心構えについて一枚の紙に200字程度で簡潔に示したもの。毎年4月23日、24日の御忌法要で内拝できます。
アフロ仏と三重塔からの景色が印象的でした^^
【4】新選組発祥の地になった理由
幕末の京都は、尊王攘夷運動が高まり暗殺や強奪が日常化し荒廃。
文久2年(1862年)京都の治安を回復するために、第14代将軍 徳川家茂は新しい職制を作り、会津藩主 松平容保(まつだいら かたもり)を「京都守護職」に任じました。
京都守護職の本陣は、城構えの構造が特長の金戒光明寺。高麗門はおもに城郭に用いられた形式で、寺院に採用されることは極めて珍しいそうです。
・京都守護職 本陣
黒谷金戒光明寺が本陣に選ばれた理由は、下記の三点だと考えられています。
1.城構えの構造
徳川家康は直轄地として二条城に所司代を置き、有事の際に軍隊が配置できるように黒谷と知恩院を城構えの作りにしていました。
黒谷は小高い岡に位置し、大軍が一度に入れないように南側には小門、西側に高麗門が城門のように建てられました。特に西からやってくる敵に対しては大山崎(天王山)、淀川のあたりまで見渡すことができました。
2.要所に近い立地
御所まで約2㎞、粟田口(三条大橋東)東海道の発着点までは1.5㎞の下りで、馬で走れば約5分、人でも急げば15分で到着できる要衝の地です。
3.1,000名の軍隊が駐屯可能
黒谷の寺域は約4万坪。大方丈及び宿坊25ヶ寺があったため、1,000名の軍隊が駐屯可能でした。
・京都守護職と新選組
新選組と会津藩の関係は、文久2年(1862年)、江戸幕府が第14代将軍・徳川家茂の上洛警備のため「浪士組」を結成したことに始まります。
文久3年、京都の壬生へ到着した浪士組240余名のうち、200余名は生麦事件発生により江戸へ帰りますが、近藤勇・土方歳三らは、水戸浪士 芹沢鴨 等とともに京都残留を希望。京都守護職御預かりとなりました。
そして、近藤・芹沢らは黒谷で京都守護職 松平容保に拝謁し『新選組』の命名とともに市中取締の命を受けました。金戒光明寺が新選組発祥の地と言われる所以です。
その後、新選組の活躍により京都の治安はかなり回復。壬生の屯所と黒谷本陣との間では報告・伝達が毎日のように行われていたといいます。
境内には会津藩殉難者墓地があります。のちの鳥羽伏見の戦いで敗れた会津藩は藩士350名が亡くなりこの地に葬られました。
【5】御朱印
御朱印は御影堂(大殿)の中で拝受できます。基本の御朱印は「浄土真宗最初門」です。
御朱印以外にも、小冊子・絵葉書・グッズなど色々ありました。
【6】金戒光明寺 アクセス
公共交通機関の最寄り駅からは少し歩きます。
最寄り駅・バス停留所
- 京阪電車鴨東線(おうとうせん)「神宮丸太町駅」
4番出口から東へ徒歩約20分。 - 市バス停留所「岡崎道」
徒歩約10分。
[地図]
A地点:京阪電車「神宮丸太町駅」
B地点:金戒光明寺 高麗門
C地点:バス停「岡崎道」
・京都駅から
- 地下鉄烏丸線 国際会館行に乗車「丸太町駅」下車。[乗換え] → 市バス204で「岡崎道」下車。合計所要時間:約26~36分
- TAXI 所要時間 約18分
総距離 約5.8km タクシー料金検索
※料金・所要時間は実際とは異なる可能性があります。
・三条京阪から
- 京阪電車鴨東線 出町柳行に乗車「神宮丸太町駅」まで約2分。 4番出口から東へ徒歩約20分。
- TAXI 所要時間 約8分
総距離 約2.5km タクシー料金検索
※料金・所要時間は実際とは異なる可能性があります。
神宮丸太町から歩くと、途中に熊野神社、聖護院門跡、須賀神社・交通神社があります。
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※この記事の史実に関する記載は、金戒光明寺公式サイト、パンフレット、駒札、Wikipedia、コトバンク等を参考に作成しました。
くろ谷 金戒光明寺(正式名称:紫雲山金戒光明寺)
所在地 京都市左京区黒谷町121
TEL.075-771-2204
境内自由
授与所 9:00~17:00
くろ谷 金戒光明寺 公式サイト