霊源院(れいげんいん)は、京都で一番古い禅寺「建仁寺」の塔頭寺院。
室町時代の五山文学を牽引する禅僧を数多く輩出し、幼少期の一休さんや今川義元も修行したお寺として知られます。
そして、初夏から梅雨にかけて咲き誇る「甘茶(あまちゃ)」の庭園も有名です。かつて「甘露庭」と呼ばれた庭園は、2020年に新たに作庭し直され生まれ変わりました。
2021年春の特別公開では、新しいお庭をゆっくり拝観する事ができました。
甘茶と仏教の関係や、その他の見どころ、御朱印、アクセス方法をご紹介します。
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【1】霊源院の拝観方法
霊源院では、春と秋に特別拝観が行われています。
※常時拝観はされていません。
・春と秋の特別拝観
2021年5月16日(土)〜7月31日(土)
甘茶の庭 『鶴鳴九皐』 特別公開
織田信長 直筆書状、明時代の達磨図(細川幽斎より拝領)特別公開。
時間:11:00~14:30(15:00閉門)
料金:一般 500円、中高生 300円、小学生無料(保護者同伴)
・特別拝観 限定御朱印
春の特別拝観では、書置きの限定御朱印を拝受できます。色々なデザインの書置き御朱印が10種類以上用意されているので、どれにしようか悩みます^^
2021年は、レーザーカットのイラストが素敵な御朱印を拝受しました。
2019年「春の特別公開」では、木村英輝氏の奉納軸「誕生仏」がデザインされた御朱印を拝受しました^^
御朱印はビジュアルメインの個性的なデザインが色々あって迷います^^ ご本尊の墨書きの御朱印(書置き)には日付を入れていただくことが出来ます。
【2】霊源院とは?
京都最古の禅宗寺院「建仁寺」は、室町時代の五山文学を代表する学僧を数多く輩出しました。
その中核を担ったのが「霊源院」と「両足院」です。
五山文学
鎌倉末期~室町時代、京都・鎌倉の五山禅林を中心に、禅僧の間に行われた漢文学の総称。宋の臨済僧・一山一寧(いっさんいちねい)や、虎関師錬(こかんしれん)、夢窓疎石(むそうそせき)らが個性的な作品を制作。そして、禅宗寺院が室町幕府の庇護を受けて五山派の官寺として公認され、学芸の中心として大いに栄え、義堂周信(ぎどうしゅうしん)、絶海中津(ぜっかいちゅうしん)らに至り盛況をきわめました。
出典:Wikipediaより抄録
・室町時代の総合大学
霊源院と両足院は、いわば現代の総合大学のような場所でもありました。
ちなみに、禅宗の大寺院の個性を表現した俗称を禅面(ぜんづら)と呼び、建仁寺は五山文学の本拠地として「学問面」と称されました。
禅面
- 建仁寺の学問面(がくもんづら):漢文学の詩文芸術に秀でた禅僧を輩出し「五山文学」の隆盛を牽引したことから。
- 大徳寺の茶面(ちゃづら):千利休が大徳寺に帰依。多くの大名が利休から茶の湯を学び、茶室を持つ塔頭が多いことから。
- 東福寺の伽藍面(がらんづら):東福寺の三門や仏殿など、禅宗の寺としては最大級の大きさの伽藍があることから。
- 南禅寺の武家面(ぶけづら):武家の篤い信仰を得て繁栄したことから。
- 妙心寺の算盤面(そろばんづら):組織運営で臨済宗きっての派閥となったことから。日本の臨済宗寺院、約6,000 のうち約3,400が妙心寺派。
- 相国寺の声明面(しょうみょうづら):禅宗の声明である梵唄(ぼんばい)が、お経や回向文の曲節の美しさとして伝承されていることから。
・霊源院のあゆみ
- 妙喜世界
南北朝時代、延文3年(1358年)中巖圓月が「妙喜世界」を創建。康安2年(1362年)建仁寺境内に移築され、応安元年(1368年)「妙喜庵」に改号。 - 霊泉院(後に霊源院)
室町時代初期、応永年間(1394~1428年)両足院開基・龍山徳見を勧請開山として一庵一麟が「霊泉院」を創建。院内に「霊源軒」を建立。
天文年間(1532~1555年)の大火で衰退の後、室町幕府の柳沢元政が復興し「霊源院」に改名。 - この二つの寺が明治(1868~1870年)の廃仏毀釈の流れの中で併合。「妙喜庵」跡地に「霊源院」が移転し現在に至ります。
・一休さん、今川義元も修行
- 一休宗純
大徳寺の一休さんは、幼少の頃に、霊源院の学僧だった慕哲龍攀(ぼてつりゅうはん)から漢詩の法を学んだ事が知られています。 - 今川義元
戦国時代の守護大名として有名な今川義元は、今川家の三男だったため、幼少の頃から建仁寺で臨済禅を学び、霊源院で出家しました。
一休宗純(いっきゅう そうじゅん)
出典:講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus より抄録
[1394-1481年]
室町時代の僧。後小松天皇の皇子。6歳で山城(京都府)安国寺にはいり,27歳のとき華叟宗曇(かそう-そうどん)から印可をうける。各地の庵を転々とし,当時の世俗化,形式化した禅に反抗して,奇行,風狂の中に生きる。
文明6年勅命によって大徳寺住持となり,入寺しなかったが,大徳寺の復興につくした。詩,書画にすぐれ,後世つくられたとんち話で知られる。著作に「自戒集」「狂雲集」「一休骸骨」など。
今川義元(いまがわ よしもと)
出典:Wikipedia等より抄録
[1519-1560年]
戦国時代の武将。父は駿河 遠江守護・今川氏親(いまがわ うじちか)の三男。母は公卿・中御門宣胤(なかみかど のぶたね)の娘・寿桂尼(じゅけいに)。
4歳の時に今川家の家臣で教育係の臨済宗の僧・太原崇孚(たいげん そうふ)に従い、京都建仁寺で臨済禅を学び出家。梅岳承芳(ばいがくしょうほう)と称しました。
その後、京都から駿河に戻った直後の天文5年(1536年)に家督を継いでいた兄の氏輝が急死。次男の彦五郎も同日に死亡したため、将軍足利義晴の諱の1字をもらって義元と名乗り家督を継承。
その後、合理的な領国経営や外征面でも才覚を発揮。所領も本拠駿河を中心に、遠江(とおとうみ)・三河(みかわ)に進出、東海地方第一の勢力となった。尾張国に侵攻した際の桶狭間の戦いで織田信長に敗れて毛利良勝に討ち取られた。
霊源院には併合した「妙喜世界」ゆかりの、中巌圓月坐像と毘沙門天立像が大切に受け継がれています。玄関に妙喜世界の額もかかっています!
【3】甘茶の庭 [春の特別公開]
本堂から眺める事ができる枯山水庭園には、ガクアジサイに似た花「甘茶」が植えられ、青く瑞々しい花を咲かせていました。
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・「甘茶」は アジサイの変種
甘茶(あまちゃ)
出典:Wikipediaより抄録
ユキノシタ科の低木アジサイの変種。 アジサイ科のガクアジサイと酷似していて、間違われる事が多い。
飲料としての甘茶は、甘茶の若葉を蒸して揉み、乾燥させてから煎じたもの。とても甘いお茶になります。
甘茶とガクアジサイの見分け方は、アジサイの葉は丸く、甘茶の葉は細長いそうです。
「甘茶」の花言葉は「祝杯」。
はじけるような花のカタチからイメージされたのかな?とも想像できますが、本当の由来は仏教との関係からきているようです(次章を参照)。
ちなみにガクアジサイの花言葉は「謙虚」。見た目はそっくりなのに全然違っていて面白いですね。
・「甘茶」と仏教の関係
仏教の開祖お釈迦さまが誕生された時、仏法の守護神 八大竜王(はちだいりゅうおう)が産湯に「甘露(かんろ)」を注いでお祝いしたという伝承があります。
そのため、お釈迦さまの誕生を祝う行事「灌仏会(かんぶつえ)」の際には、甘露に代わるものとして、飲料としての甘茶を仏像に注ぎかけてお祝いをする風習が今に伝わっています。
「甘茶」は「甘露」に見立てられているんですね。
甘露(かんろ)
出典:精選版 日本国語大辞典
天から与えられる甘い不老不死の霊薬。中国古来の伝説では、天子が仁政を行なうめでたい前兆として天から降るといわれている。
灌仏会(かんぶつえ)
出典:Wikipediaより抄録
釈迦の誕生を祝う仏教行事。日本では原則として毎年4月8日に行われ、一般的には花祭・花祭り・花まつり(はなまつり)と呼ばれている。
・枯山水「鶴鳴九皐」
「昭和の小堀遠州」と称された造園家・中根金作の孫、中根行宏・直紀さん兄弟(中根庭園研究所)によって、2020年、新しい枯山水庭園「鶴鳴九皐(かくめい きゅうこう)」に生まれ変わりました。
新しい庭は、インドから中国、日本へと仏教が伝来するイメージで作庭され、本堂の東側から南側へL字型に取り囲むように、三つのゾーンが大海原に見立てた白砂で繋がっています。
ちなみに、甘茶は釈迦が誕生されたインドのゾーンに咲き誇っています。
鶴鳴九皐とは?
鶴は深い谷底で鳴いても、その鳴き声は天に届く。つまり賢人は身を隠しても、その名声は広く世間に知れ渡るというたとえ。=聖者(釈迦)の教えは世界に広まるという意味だそうです。
臨済宗建仁寺派の小堀泰巖(たいげん)管長が、詩経の一節から名付けました。
庭園に込められた物語
- インドで仏教が誕生。
東側左奥の庭は、釈迦が誕生されたインドゾーン。甘茶が約450本植えられ、左手には釈迦が悟りを開いたとされるブッダガヤから運ばれた赤茶色の「座禅石」が配されています。ここに座って記念写真を撮ってもOKだそうです。後方には沙羅双樹(涅槃の象徴)も植えられています。 - 中国へ伝来。
東側中央に配置された2つの巨石は、インドから中国へ渡来した達磨(だるま)大師が禅を伝えたとされる嵩山(すうざん)をイメージしたもの。洞窟に達磨大師の像が隠れています^^ - 日本へ伝来。
東側右奥の庭からは日本ゾーン。茶租と呼ばれる建仁寺の開山・栄西にちなんで、お茶の木が植えられ、続く南側の庭は、鶴亀や蓬莱山など日本特有の禅庭になっています。
L字型の繋がりを意図した作庭によって、賑やかな大陸と、日本の侘び寂びを感じる枯山水が引き立てあっていました^^
【4】その他 見どころ
室内は撮影禁止なので、気になる方は公式サイトをチェック!
・中巌圓月坐像と毘沙門天立像
- 中巌円月坐像
南北朝時代の伝統的な技法を継承する写実的な肖像彫刻で、玉眼をはめ込んだ目が印象的な作品。高さ81cm。中巌円月(ちゅうがんえんげつ)和尚は、五山文学に大きな影響を与えた詩文で知られる臨済宗の僧侶です。
※昭和20年ごろから修理のため京都国立博物館に預けられ、平成8年に、像内から高さ37.5cmの毘沙門天立像が見つかりました。 - 毘沙門天立像
中巌円月坐像の胎内仏。鎌倉時代に慶派仏師が手がけたとみられる木像です。動きのある衣の表現など、細部まで丁寧な彫刻が施され、左手に持つ水晶の中には伝教大師最澄が持ち帰ったという仏舎利が納められています。
・茶室 「也足軒」と「妙喜庵」
鎌倉時代、建仁寺の開祖・栄西禅師は宗へ渡り、「禅」と「抹茶」を日本へ持ち帰りました。そしてお茶の普及に努めたことから「お茶の祖」としても知られています。後に栄西禅師の「喫茶の法」は、茶道へと継承されていきます。
- 茶室「也足軒(やそくけん)」
四畳半の茶席。本堂内に「にじり口」がある珍しい構造になっています。 - 一畳台目の茶室「妙喜庵」
茶室として一番小さいサイズの茶室です。一畳台目は、点前に必要な道具畳と、客が座る一畳だけに切り詰めた、究極の茶室とされています。
一番小さいサイズの茶室はコンパクトでとても可愛いです^^ ※写真不可
【5】霊源院 アクセス
いちばんの最寄り駅はバス停「清水道」。電車の場合は、京阪本線「清水五条駅」が近いです。祇園四条からも徒歩圏内なので、観光プランに合わせて臨機応変なアクセスが可能です^^
[地図]
B地点:霊源院
A地点:最寄り駅(祇園四条駅・清水五条駅・バス停 清水道)
・電車 最寄り駅
- 阪急京都線「京都河原町駅」1B出口から霊源院まで 徒歩約14分
- 京阪本線「祇園四条駅」6番出口から霊源院まで 徒歩約12分
- 京阪本線「清水五条駅」5番出口から霊源院まで 徒歩約11分
※清水五条駅は、特急は停車しません。
・京都駅から
- 市バス
★京都駅前バスターミナルのりば案内
[D1乗り場] 洛バス100 清水寺祇園・銀閣寺行「清水道」まで約14分
[D2乗り場] 市バス206 北大路バスターミナル行「清水道」まで約17分
※バス停「清水道」から 霊源院まで 徒歩約5分 - TAXI 所要時間 約9分
総距離 約2.7km タクシー料金検索
※料金・所要時間は実際とは異なる可能性があります。
霊源院を訪れたなら、本山である建仁寺の参拝もお薦めします!
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※この記事の史実に関する記載は、霊源院公式サイト、パンフレット、Wikipedia等を参考に作成しました。
霊源院|建仁寺塔頭
所在地 京都市東山区大和大路四条下ル小松町594
FAX.075-277-1118
霊源院 公式サイト