西本願寺と東本願寺、二つに分かれた理由。親鸞の浄土真宗とは?

西本願寺 東本願寺

西本願寺と東本願寺は、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人(しんらんしょうにん)をお祀りする廟堂から発展した寺院です。

親鸞は生前、自ら宗派を開く気持ちはありませんでした。なので、数百年後に日本での信者数NO.1の仏教宗派の宗祖とされるなんて、想定外だったと思われます^^

そして、組織が大きくなると出てくるのが創業家の派閥争い。

西本願寺と東本願寺に分かれた理由や歴史、親鸞と浄土真宗について簡単にまとめました。

基本情報

西本願寺(正式名称:龍谷山 本願寺)
所在地 下京区本願寺門前町
TEL.075-371-5181
開門・閉門 5:30~17:00
西本願寺 公式サイト

東本願寺(正式名称・真宗本廟)
所在地 京都市下京区烏丸通七条上る
TEL.075-371-9181
開門・閉門 3月~10月/5:50~17:30、11月~2月/6:20~16:30
東本願寺 公式サイト

西本願寺・東本願寺には、お守り・御朱印はありません。
念仏をとなえて阿弥陀如来を信じ続ける心が重要なので、ひとときの気休めにしかならない御守や御朱印は必要ないという考えです。

【1】親鸞と浄土真宗

親鸞は、「浄土宗」の開祖 法然(ほうねん)に師事できたことを生涯の喜びとした人です。そのため、自ら新しい宗派を開く事は考えていませんでした。

後に「浄土真宗」と呼ばれる宗派は、親鸞の没後に門弟たちが発展させた教団なのです。

浄土真宗では、法然を「元祖」、親鸞を「宗祖」と称しています。

・親鸞聖人

  1. 承安3年(1173年)京都生まれ。9歳で出家し比叡山で天台宗を20年修行しますが煩悩や迷いに苦しみます。
  2. 建仁元年(1201年)29歳の時に比叡山を離れ、尊敬する聖徳太子が建立した六角堂へ百日参籠。95日目に観世音菩薩の夢告をうけ、法然のもとに向かいます。
  3. 法然の「南無阿弥陀仏」を唱えれば誰もが極楽浄土に往生できるという教え(専修念仏)に感銘を受け弟子となります。そして、念仏の教えを広く教化する事に全力を注ぎました。
  4. 建永2年(1207年)旧仏教教団の圧力により専修念仏は禁止され、法然に連座して流罪となり新潟に配流。5年後に勅免。
  5. 建暦2年(1212年)法然が死去。教義が誤って理解されることを心配し公開禁止だった著書「選択集(せんじゃくしゅう)」が弟子によって公開されると、批判が集まり専修念仏が再び禁止となりました。
    親鸞は法然の教えが正しく理解されていない現実を悲観し、念仏の教えの真意を明らかにすることが、自分の生涯を尽くしてなすべき事だと決意。
  6. 建保2年(1214年)42歳の頃、新潟から関東へ移り人々に念仏の喜びを伝え、関東地方にも多くの念仏者を育てました。
    同時に、法然の念仏の教えを体系的に説いた【教行信証】の草稿を作成。補足・改訂を重ね完成したのは75歳頃。法然の教義を継承しつつ、親鸞独自の教義の展開も多くみられると言われます。
  7. 嘉禎1年(1235年)63歳頃に帰京。弘長3年(1263年)京都の善法院にて、実弟・尋有(じんう)、末娘・覚信尼(かくしんに)らに看取られて90歳で死去。遺骨は鳥部野北辺の「大谷」に納められました。

南無阿弥陀仏
現代語に訳すと「阿弥陀仏に帰依します。」になります。
南無はサンスクリット語の「ナモ」が語源で、帰依する、信ずる、任せるという意味があります。

法然 [1133-1212年] 
鎌倉初期の僧。浄土宗の開祖。1147年比叡山で源光の門に入り,天台を学んだが,1150年教学などに対する疑問を生じ,西塔黒谷の叡空のもとに隠棲し,法然房源空と称した。以後20年間修学,善導の《観経疏》によって,称名念仏に専修する悟りに達した。のち,東山の吉水に草庵を結び,老若貴賤を問わず教化した。
1186年天台の学匠顕真と専修念仏について議論(大原問答)し,女官の出家を契機として南都北嶺の迫害を受け,1207年土佐(実は讃岐)に配流された。その思想は《選択本願念仏集》に最もよく表現され,至誠心,深心,回向発願心の三心によって,老若貴賤,修行の多寡など問題なく,阿弥陀仏によって救われるとした。
門下に聖光,源智,証空,親鸞などを出し,日本浄土教の発展の基礎となった。

出典:平凡社百科事典マイペディアより抄録

親鸞[1173-1263年]
鎌倉時代の僧。浄土真宗の開山。幼くして青蓮院慈円の門に入り,のち比叡山の堂僧として修行し,また奈良に遊学した。六角堂に参籠し聖徳太子の文の示現により法然に帰依,他力念仏門の宗旨に精進した。
のち法然の許しを得て恵信尼と結婚した。1207年法然の承元法難に連座し,越後に流された。勅赦後は信濃・下野・常陸の各地を遍歴して教化に努め,常陸の稲田で《教行信証》を著し,真宗の基礎を置いた。
60歳にして帰洛の途につき,近江の木部で錦織寺を建てた。京都では転々と住居を移して教化と著述に努めた。その思想は法然の念仏為本に対して信心為本といわれ,徹底した信心中心の思想で,阿弥陀仏への絶対的信仰を往生の要義とした。

出典:平凡社百科事典マイペディアより抄録

・浄土真宗

浄土真宗の根本聖典は、全6巻からなる親鸞の著作『教行信証』です。

「浄土真宗」とは、親鸞が『教行信証』の中で、法然の著書「選択集」に著された念仏の精神の本当の意味を明らかにした言葉です。

浄土がまこと(真)のむね(宗)である。

浄土を願い念仏をとなえ、人として生まれ生きていく意味、すべての人々とともに今生きているということを再確認する道は、すべての人に開かれているのです。

浄土とは
死んだ後の世を意味するものではない。むしろ阿弥陀仏の大悲の心に目覚めた私たちに開かれる世界を意味している。
それは、つながりの中で生きる私たちが、互いにそれぞれの違いを認めあうことのできる世界であり、「わたしは〈わたし〉であってよかった。あなたは〈あなた〉として尊い」と感じる事のできる世界である。

出典:東本願寺出版「親鸞 生涯と教え」より抄録

・本願寺 名前の由来

「本願」とは、仏や菩薩が一切の生あるものを救おうとして立てた誓願のこと。

特に著名なのは阿弥陀仏の四十八願で、浄土教では第十八願「念仏往生の願」を本願と呼び、教義の根本においています。浄土教に属する日本の宗派は、浄土宗、浄土真宗、時宗です。

本願寺という寺号は、親鸞の廟堂に対して亀山天皇より下賜された「久遠実成阿弥陀本願寺」(くおんじつじょうあみだほんがんじ)が由来とされています。

他力本願(たりきほんがん)
親鸞聖人は『教行信証』に「他力といふは如来の本願力なり」と明示しておられます。
他力とは、他人の力ではなく、仏の力、阿弥陀仏の慈悲のはたらきをいうのです。
仏さまの生きとし生けるものを救わずにはおれないという強い願いのはたらき、これが「他力本願」なのです。

出典:本願寺出版社「くらしの仏教語豆事典」より抄録
ミィコ

親鸞は生涯をかけて、法然の教えを正しく伝えようと尽力した人なんですね。

【2】西本願寺・東本願寺の歴史

西本願寺・東本願寺は、日本の仏教宗派の中で最多の信者数を誇る浄土真宗の寺院。

とはいえ、浄土真宗の祖・親鸞聖人が建立したのではありません。聖人を尊敬する門徒たちが、親鸞の霊をお祀りするために建立した廟堂から大きく発展した寺院なのです。

西本願寺
▲西本願寺 目隠し塀と阿弥陀堂・御影堂
東本願寺
▲東本願寺 御影堂門

・本願寺の始まり

親鸞聖人は弘長2年(1263年)90歳で死去し、遺骨は京都東山の大谷に建てた石塔に納められました。あまりに簡素な墓所に、末娘の覚信尼や、関東の門弟達は寂莫の感を深め廟堂の建立を計画しました。

  1. 大谷廟堂の建立
    文永9年(1272年)覚信尼が敷地を寄進、関東の門弟の協力をえて六角の廟堂を建て、親鸞聖人の影像を安置し遺骨を移しました。これが大谷廟堂です。
    覚信尼が廟堂を守る留守職(るすしき)につき、以後、子孫が門弟の了承を得て就任しました。第1代:覚信尼→ 第2代:覚恵上人→第3代:覚如上人
  2. 第3代 覚如上人が門弟の集結を図る
    覚如上人は、親鸞聖人の浄土真宗の教えを相伝し正しく継承できるのは自分であることを明らかにして門弟の集結を図りました。
  3. 大谷本願寺 成立
    元亨元年(1321年)頃、覚如上人は寺院化を試み、本願寺(大谷本願寺)と公称し、親鸞聖人の影像と阿弥陀仏像を堂内に安置しました。御影堂(北)と阿弥陀堂(南)に分けられたのは第7代 存如上人の時代です。この時点での本願寺は弱小勢力でしたが、浄土真宗は親鸞の門弟たちの教団によって発展していきました。

・本願寺の興隆と排斥

浄土真宗が人々に広まり興隆すると、権力者は一向一揆の原因となる脅威として排斥しました。

当時の封建体制にとって「阿弥陀如来の前では全ての命は等しく尊い」という思想は危険だったのです。

  1. 大谷本願寺の興隆、中興の祖 第8代 蓮如上人
    長禄元年(1457年)存如上人が死去。後を継いだ第8代 蓮如上人は、親鸞聖人の教えを誰にでも分かるようにやさしく説いて伝道活動を行い、急速に近畿地方から東海・北陸まで教えを広めます。
  2. 比叡山に破却され、山科本願寺 建立
    寛正6年(1465年)比叡山衆徒が寺を破却。難を避けた蓮如上人は転々とした後、文明10年(1478年)京都山科で本願寺を再興。山科本願寺も次第に発展しますが、全国に教えを広め慕われた蓮如上人は明応8年(1499年)85歳で死去。
  3. 戦国の争乱で焼失、大坂石山本願寺 建立
    天文元年(1532年)武将 六角定頼や日蓮衆徒の焼き討ちで寺を焼失。第10代 証如上人は大坂石山御坊に寺を移転し、戦国武将らの攻撃に備えるために武装を強化。その後、難攻不落の城砦となった大坂石山本願寺は発展の一途をたどりました。

・織田信長と対立

第11代 顕如上人が率いる大坂石山本願寺の門徒集団は、戦国時代最大の宗教的武装勢力となり、天下布武を目指す織田信長と激しく対立。

  1. 元亀元年(1570年)信長は大阪石山本願寺を攻撃(石山合戦)。10年以上攻め続けるも降伏させることはできず、正親町天皇をとおして和睦を求めました。
  2. 天正8年(1580年)顕如上人は仏法存続を旨として信長と和議を結び、大坂石山本願寺を信長に明け渡し、和歌山の鷺森本願寺に移りました。
    しかし徹底抗戦を望む長男の教如は寺に立てこもり抵抗を続け、結局敗れて石山本願寺は焼かれてしまいました。

    顕如上人は教如を絶縁。
    ※この時の対立が後の本願寺分立の遠因になります。
    ・和睦賛成派:顕如上人、准如(三男)
    ・徹底抗戦派:教如(長男)

・豊臣秀吉と本願寺

石山合戦のあと本願寺は転々とし、信長の死後、天下を取った豊臣秀吉から寺地の寄進をうけ京都で再興。しかし顕如上人が死去すると、石山合戦時の対立が再度表面化します。

  1. 鷺森本願寺→ 貝塚本願寺→ 大坂天満本願寺
    大坂石山本願寺から和歌山の鷺森本願寺→ 和泉の貝塚本願寺へと移転。
    天正10年(1582年)本能寺の変で信長が自害。
    後陽成天皇の提案で顕如上人は教如と和解
    天正13年(1585年)豊臣秀吉の寺地寄進を得て、大坂天満本願寺へ移転。
  2. 本願寺、京都へ戻る
    天正19年(1591年)再度、豊臣秀吉から京都の寺地の寄進を受け、天満から御影堂を移築。阿弥陀堂を新築し文禄元年(1592年)本願寺が完成しました。
    しかし同年、顕如上人は積年の疲労から50歳で死去。
  • 文禄元年(1592年)顕如の長男 教如が第12代を継承。しかし石山合戦の際に自分に賛同した元強硬派を重用したため、元穏健派との対立が再び明確になります。
  • 文禄2年(1593年)顕如の妻 如春尼が、顕如が遺した三男 准如 宛『留守職譲状』を根拠として豊臣秀吉に直訴、秀吉の命で准如が本願寺宗主 第12代となる事に決定。

    ※教如は本願寺の一角に退隠させられ「裏方」と称せられますが、本願寺内で力を持っている事実は変わらず、布教活動などは精力的に行いました。

・本願寺の分立と徳川家康

  1. 慶長3年(1598年)豊臣秀吉 死去。関ヶ原の戦いの後、退隠させられていた教如は徳川家康に接近します。
  2. 慶長7年(1602年)教如は後陽成天皇の勅許を背景に、家康から「本願寺」の東の烏丸七条に寺領の寄進をうけ、隠居所から堂舎を移し本拠としました。

その結果、正式に本願寺が二つに分立。

  • 准如を第12代とする本願寺教団(現在の浄土真宗本願寺派/西本願寺)
  • 教如を第12代とする本願寺教団(現在の真宗大谷派/東本願寺)

教如派が平和的に公然と独立を果たした事で、両本願寺の宗政は安定しました。

家康の寺領寄進は、分裂状態にあった本願寺の現状を追認したものと考えられています。一説に、本願寺の巨大な勢力を弱体化させるために、教如を利用して本願寺を分裂させたとも言われますが、その意図が明確に記された史料がないので真実は不明です。

ミィコ

分立の原因は、創業家あるあるですね。

【3】西本願寺・東本願寺 違い

西本願寺と東本願寺は雰囲気や境内の広さだけでなく、メインのお堂(御影堂・阿弥陀堂)のスケールが大きいところも似ています。さすが、信者数NO.1の本山ですね。

共通の特長は、親鸞聖人の廟堂から発展した経緯から、親鸞聖人像が安置されている御影堂(ごえいどう)が、本堂(阿弥陀堂)よりも大きく造られているところ。

似ているけれど同じではないので、是非両方参拝してみてください。

・西本願寺 見どころ

西本願寺は世界文化遺産にも登録されています。

  • 御影堂:国宝、寛永13年(1636年)再建。正面62m、側面48m、高さ29m。親鸞聖人の木像と歴代宗主の御影像が安置されています。
  • 阿弥陀堂:国宝、宝暦10年(1760年)再建。正面45m、側面42m、高さ25m。阿弥陀如来の木像、法然上人をはじめとする七高僧や聖徳太子の御影像が安置されています。
  • 他にも、書院・唐門・総門など、国宝や重要文化財に指定された建造物多数。

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西本願寺 御影堂
▲西本願寺 境内
西本願寺 唐門
▲西本願寺 唐門

・東本願寺 見どころ

重要文化財の建築物だけではなく、ギャラリーでの企画展も充実しています。

  • 御影堂:世界最大級の木造建築物(正面76m、側面58m、高さ38m)。親鸞聖人の御真影や歴代宗主の御影像が安置されています。明治28年(1895年)再建。
  • 阿弥陀堂:阿弥陀如来の左右に、法然上人をはじめとする七高僧や聖徳太子の御影像が掛けられています。明治28年(1895年)再建。
  • ギャラリー:宗祖・親鸞の歩みなどのパネル展示やビデオ上映。渡り廊下経由で御影堂・阿弥陀堂へも行けます。

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東本願寺 境内
▲阿弥陀堂から御影堂門をのぞむ
東本願寺 御影堂
▲東本願寺 御影堂

・共通点と相違点

安土桃山時代までは一つのお寺だったので、教義もお経も同じです。ちなみに、正式名称は昭和62年(1987年)まで、両寺院とも「本願寺」でした。

現在も根幹は同じですが、宗派名・正式名称などは変更されています。西本願寺・東本願寺は通称です。

わかりやすい相違点としては、御影堂と阿弥陀堂の伽藍配置。西本願寺は御影堂が南(左)に、東本願寺は北(右)にあります。

他にも、廟所や経典の呼び方 [大谷本廟(西)・大谷祖廟(東)/御本典(西)・御本書(東)]、お経の発音、仏壇・仏具のデザインが少し異なるそうです。

西本願寺東本願寺
宗旨浄土真宗浄土真宗
宗派浄土真宗 本願寺派真宗 大谷派
寺格本山本山
本尊阿弥陀如来阿弥陀如来
創建年大谷本願寺/元亨元年(1321年)
西本願寺/天正19年(1591年)
大谷本願寺/元亨元年(1321年)
東本願寺/慶長7年(1602年)
開山大谷本願寺/覚如(本願寺第3世)
西本願寺/顕如(本願寺第11世)
大谷本願寺/覚如(本願寺第3世)
東本願寺/教如(本願寺第12世)
正式名龍谷山 本願寺
※昭和62年(1987年)までは本願寺
真宗本廟
※昭和62年(1987年)までは本願寺
別称お西さんお東さん
文化財国宝:御影堂、阿弥陀堂、飛雲閣、他
その他、重要文化財多数
〈世界文化遺産〉
国宝:教行信証 全6冊
その他、重要文化財多数
末寺・門徒中国地方に特に多い北陸地方・東海地方に特に多い
ミィコ

お経の発音や仏壇・仏具のデザインが少し違うのは、差別化のための苦肉の策だったのかもしれませんね。

【5】西本願寺・東本願寺 アクセス

  • 東本願寺 御影堂門は、京都駅中央口から徒歩約8分。
  • 西本願寺 御影堂門は、京都駅中央口から徒歩約15分。
    もしくは、京都駅前バスターミナルから、市バス9、28、75番で「西本願寺前」下車、徒歩約2分。乗車時間:約6分。

[地図]
A地点:西本願寺 御影堂門

B地点:東本願寺 御影堂門

西本願寺 御影堂門から東本願寺 御影堂門までは徒歩約15分です。

ミィコ

西本願寺・東本願寺の境内から、京都タワーがよく見えます。

※この記事の史実に関する記載は、西本願寺・東本願寺公式サイト、パンフレット、駒札、書籍「親鸞 生涯と教え」、Wikipedia、コトバンク等を参考に作成しました。