大徳寺 | 茶の湯と縁深い禅寺。見どころ&アクセス

大徳寺

大徳寺は臨済宗大徳寺派の大本山。多くの名僧を輩出した京都有数の大規模な禅宗寺院で、茶の湯の歴史と深い縁があることでも知られます。

鎌倉時代末期の正和4年(1315年)に大燈国師/宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)禅師が開創。室町時代の応仁の乱で荒廃しますが、一休宗純(いっきゅうそうじゅん)和尚の尽力によって復興しました。

桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、菩提を弔うために総見院を建立。それを契機に戦国武将が相次いて塔頭を建立し隆盛を極めました。

境内は自由に散策できますが、本坊は特別拝観の期間以外は非公開。塔頭も非公開のところが多く、常時拝観可能な塔頭は、龍源院・瑞峯院・大仙院・高桐院の4か院です。

そのため、観光客で大混雑ということはないので、ゆっくり参拝できます。茶の湯にまつわるエピソードや、アクセス方法をご紹介します。

基本情報

大徳寺 [正式名:龍宝山 大徳寺] 
所在地 京都市北区紫野大徳寺町53
TEL.075-491-0019
拝観時間 10:00~16:30
定休日 無休

【1】大徳寺の歴史

大徳寺は幕府の保護下にある五山十刹に列した時代もありますが、五山が権勢に密着・世俗化し、坐禅を捨てて漢詩文や学問に没頭する姿勢を批判。自らは禅本来の姿である坐禅一道に徹し独自の立場をうちたてました。

その後、享徳2年(1453年)の火災と応仁の乱(1467-1477年)で伽藍を焼失。「一休さん」の愛称で有名な一休宗純が堺の豪商らの協力を得て復興しました。そして一休に参禅した、わび茶の祖・村田珠光からはじまり、有名な茶人、戦国武将との深い縁がはじまりました。

・大徳寺の歩み

  1. 正和4年(1315年)禅僧・宗峰妙超が洛北紫野の地に「大徳」という小庵を開創。花園天皇(北朝)、後醍醐天皇(南朝)両天皇の帰依を受け、勅願所となります。
  2. 嘉暦元年(1326年)法堂完成と同時に龍宝山大徳寺と命名されました。
  3. 元弘3年(1333年)後醍醐天皇から「本朝無双之禅苑」の宸翰(しんかん)を賜り、南禅寺と同格の五山の第一位に推されました。
    しかし、後醍醐天皇による建武の新政が失敗し足利政権が成立すると、南朝方とみられた大徳寺は次第に衰退。至徳3年(1386年)には、五山十刹の第9位となりました。
  4. 永享3年(1432年)第二十六世・養叟宗頤(ようそう そうい)は、世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心するという独自の道を選びました。その後、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄えます。
  5. 享徳2年(1453年)の火災と応仁の乱(1467-1477年)で当初の伽藍を焼失しますが、一休宗純が堺の豪商らの協力を得て復興します。
  6. 天正10年(1582年)豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、その菩提を弔うために総見院を建立し寺領を寄進。それを契機に戦国武将が相次ぎ塔頭を建立し隆盛を極めました。
  7. 寛永6年(1629年)紫衣事件で、元住持の高僧・沢庵宗彭が流罪の圧迫を受けますが、三代将軍家光が沢庵に帰依したこともあって幕府との関係ものちに回復。
  8. 近世には末寺25ヶ国280余寺、末寺の塔頭130余院、朱印地は2011石余を有し栄えました。明治維新後の上知令によって多くの領地を失うものの寺運は栄え今日に至っています。

宗峰 妙超(大燈国師)[1283-1338年]
臨済宗の僧。播磨の紀氏の出身。11歳のとき書写山円教寺に入って天台宗を学んだが,のちに鎌倉万寿寺の高峰顕日に参じて禅を修めた。しかし,和様化したその禅風に飽き足りず,1305年(嘉元3)新帰朝僧の南浦紹明(なんぽしようみよう)について大陸禅を学び,ついにその法をついだ。
東山の雲居(うんご)菴に隠棲すること20年,やがて24年(正中1)京都の紫野に大徳寺を開創した。

出典:平凡社世界大百科事典より抄録

一休 宗純 [1394-1481年]
室町時代の僧。後小松天皇の皇子。6歳で山城(京都府)安国寺にはいり,27歳のとき華叟宗曇(かそう-そうどん)から印可をうける。各地の庵を転々とし,当時の世俗化,形式化した禅に反抗して,奇行,風狂の中に生きる。
文明6年勅命によって大徳寺住持となり,入寺しなかったが,大徳寺の復興につくした。詩,書画にすぐれ,後世つくられたとんち話で知られる。著作に「自戒集」「狂雲集」「一休骸骨」など。

出典:講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus より抄録

・五山叢林 vs 林下

大徳寺は、五山叢林(そうりん)に列した時期もありましたが、のちに離脱。座禅に徹した禅本来の姿を追求したスタイルを確立し繁栄を極め、叢林に対して林下(りんか)と呼ばれました。

五山叢林

五山叢林とは、室町幕府が制定した寺格制度である五山・十刹(じっせつ)・諸山の制度に組み込まれ、その保護・統制下に置かれていた禅宗官寺です。

幕府が住持を任命し、伽藍の造営と維持・寺領の保護に責任を持ったため、五山の禅寺は巨財を蓄え繁栄しました。

そして、五山では坐禅よりも詩文の教養を貴ばれ五山文学が隆盛。室町文化と呼ばれる、水墨画・庭園・能・茶の湯なども禅僧の創造活動によって発展しました。

林下

林下とは、座禅に徹した禅本来の姿を追求し、権力と迎合せずに自力で教団を維持し、布教に努めた禅僧集団です。

室町期の大徳寺は、五山が権勢に密着・世俗化し、坐禅を捨てて漢詩文や学問の世界に没頭する禅を批判、自らは禅本来の姿である坐禅一道に徹し当時の禅宗界に独自の立場をうちたてました。

叢林が室町幕府の衰退とともに次第に衰えると、かわって林下の禅が台頭、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を得ました。

ミィコ

叢林と林下の違いを知ると、大徳寺と妙心寺の境内のストイックな雰囲気が何となく似ている事に納得できます。

【2】大徳寺と茶の湯

大徳寺は、茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきたことから「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と呼ばれました。

大徳寺の当初の伽藍は、享徳2年(1453年)の火災と応仁の乱(1467-1477年)で焼失しますが、「一休さん」の愛称で有名な一休宗純が堺の豪商らの協力を得て復興しました。

その後、一休宗純に参禅した村田珠光(むらたじゅこう)、大徳寺90世大林宗套(だいりん そうとう)より法を継いだ武野紹鴎(たけの じょうおう)、さらに千利休・小堀遠州をはじめ多くの茶人も大徳寺と関係を持ちました。

茶の湯は織田信長が庇護し、豊臣秀吉もそれにならったため、武将たちの間でも流行。そして1582年に秀吉が大徳寺で織田信長の葬儀を行い総見院を建立して以降、武将たちも競って塔頭を建立しました。

・村田珠光:侘茶の創始者

村田珠光 [1422-1502年] は、大徳寺塔頭の真珠庵で一休宗純に参禅。「茶禅一味」(茶と禅の精神を統一する)という境地に到達し、茶をたてて心の静けさを求め、簡素簡略の精神を重んじる「草庵の茶=侘茶(わびちゃ)」を創始しました。

・武野紹鴎:侘茶を洗練

武野 紹鴎 [1502-1555年] は堺の豪商でしたが、大徳寺で禅の修行をしました。後に茶の湯と関わり、村田珠光の草庵の茶を一層深化・簡略化させ、精神性をより高め禅的な「侘び」の理念を打ち立てました。

・千利休:侘茶を完成

千利休 [1522~1591年] は堺の商家出身。茶の湯を武野紹鴎に学び、極限まで無駄を省く「侘茶」を完成したことで知られます。

天下人・豊臣秀吉に茶頭として仕え、茶人としての地位を確立。「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱えました。子孫は茶道の三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)として続いています。

1591年、利休は秀吉の逆鱗に触れ切腹を命じられました。大徳寺山門の二階に利休の木像が置かれた事が原因のひとつだと伝わります。

大徳寺 塀
▲茶の湯とは関係ないですが、大徳寺の瓦土塀
ミィコ

茶道界のレジェンド達は、みんな大徳寺と関係があったんですね。「大徳寺の茶面」というニックネームに納得です。

【3】大徳寺みどころ

境内は自由に散策可能で、勅使門、山門、仏殿、法堂、方丈などが南北に並び七堂伽藍を完備しています。本坊は特別拝観の期間以外は非公開です。

境内には別院2寺、塔頭22寺があり、それぞれに貴重な建築、庭園、美術工芸品が多数残されています。しかし塔頭も非公開のところが多く、常時拝観可能な塔頭は、龍源院・瑞峯院・大仙院・高桐院の4か院です。

・勅使門(重文)

後水尾天皇より拝領したと伝えられる勅使門。前後が唐破風、左右切妻の桧皮葺の四脚門です。(重要文化財)

大徳寺 勅使門
▲勅使門

・山門(重文)

龍宝山の門、三解脱門(空門・無相門・無作門)。応仁の乱後、一休禅師の参徒・連歌師宗長等が一階部分を寄進。後に千利休によって二階部分が設けられ金毛閣と名づけられました。金毛とは、金毛獅子=高僧の意。(重要文化財)

寺は利休の恩に報いるために、二階に雪駄を履いた利休の木像を安置。しかし、門を通る者は利休の足下をくぐることになると豊臣秀吉の逆鱗に触れ、利休切腹の一因となったと伝わります。

大徳寺 山門
▲山門「金毛閣」

・仏殿(重文)

自由に参拝できます。御本尊は釈迦如来。この仏殿にお参りするだけで、全部の塔頭をお参りするのと同じご利益があるとのことです^^

仏殿は、第一世 大現国師によって創建。応仁の乱(1467-1477年)で焼失し一休和尚等によって再建。さらに、寛文5年(1665年)京都の豪商 那波常有(なわ じょうゆう)によって改めて建造されました。(重要文化財)

大徳寺 仏殿
▲仏殿

・法堂と天井龍(重文)

通常非公開。特別公開の時に拝観することが出来ます。内部は写真不可。

正中2年(1325年)修造を始めましたが、応仁の乱によって焼失。一休和尚が仏殿を再建されて以降は、仏殿と兼用されていました。寛永13年(1636年)、開山国師三百年遠諱に当たり現在地に再建されました。(重要文化財)

天井の龍は、狩野探幽が35歳の時に描かれました。また、この下で手を叩くと龍の鳴き声が聞こえるように響くことから「鳴き龍」と呼ばれています。

大徳寺 法堂
▲法堂

・方丈、唐門(国宝)

通常非公開。特別公開の時に拝観することが出来ます。内部は写真不可。

国宝でもある方丈は、法堂や仏殿などの伽藍が中国風なのに対し、江戸時代初期の日本様式で「雲門庵」を中心とした独特の造りになっています。

大徳寺では、開山国師の遺命により開山塔はありませんが、方丈奥に「雲門庵」を設けて国師をお祀りされているのです。

方丈前の枯山水は小堀遠州の作庭で特別名勝庭園。「日暮門」とよばれる国宝の唐門は、絢爛豪華な彫刻が美しい豊臣秀吉の聚楽第の遺構。また、方丈襖絵80余面は狩野探幽の筆で重要文化財です。

大徳寺 参道
▲参道、右手は法堂
大徳寺 庫裏
▲庫裡:方丈拝観の際はここから入ります。
ミィコ

「大徳寺本坊、方丈修復前の最後の特別拝観」に伺いました。方丈の枯山水、美しい唐門の彫刻、鳴き龍などなど、とても価値ある特別拝観でした。方丈はしばらく工事中になりますが、機会があれば是非^^

【4】御朱印

御朱印は書置きのみで、庫裡で拝受することが出来ます。
「本朝無双之禅苑」とは、後醍醐天皇から賜った宸翰に由来します。日本における唯一無二の禅の道場という意味になります。

大徳寺 御朱印
ミィコ

南北朝時代に後醍醐天皇から賜ったキャッチフレーズを今も守り続けられているなんて素晴らしいですね^^

【5】大徳寺へのアクセス

最寄り駅は、バス停「大徳寺前」。

[地図]
B地点:大徳寺 勅使門~庫裏

A地点:バス停「大徳寺前」

・京都駅から

  • 地下鉄烏丸線 国際会館行に乗車「北大路駅」下車→ 市バスに乗換→「大徳寺前」下車 。所要時間:約25分。
  • 京都駅前バスターミナルのりば案内
    [A2のりば] 市バス205 北大路バスターミナル行「大徳寺前」まで約45分
    [A3のりば] 市バス206 北大路バスターミナル行「大徳寺前」まで約40分
    [B2のりば] 洛バス101 北大路バスターミナル行「大徳寺前」まで約42分
  • TAXI 所要時間 約21分
    ・総距離 約6.7km タクシー料金検索
    ※料金・所要時間は実際とは異なる可能性があります。

・四条河原町から

  • [Fのりば] 市バス205 洛北高校・北大路バスターミナル行「大徳寺前」まで約31分

・北大路バスターミナルから

洛バス101 京都駅前行「大徳寺前」まで約4分
洛バス102 錦林車庫前行「大徳寺前」まで約4分
市バス204 北大路通り・金閣寺・西ノ京円町行「大徳寺前」まで約5分
市バス205 西大路七条・京都駅行「大徳寺前」ま約5分
市バス206 千本通り・京都駅行「大徳寺前」まで約5分
市バス北8  佛教大学・松ヶ崎駅前行「大徳寺前」まで約5分

ミィコ

バスの車窓から風景を眺めながら、ゆっくり行く余裕がある時は問題ないけど、時間がない時は地下鉄やタクシー利用がおすすめ^^

【6】総門と南門どちらから参拝?

正式な入り口は総門で、駐車場の奥にあります。そして、駐車場前の旧大宮通沿いには、名物 大徳寺納豆を販売するお土産屋さんが並んでいて賑やかです。

と言いつつ個人的には、市バスで大徳寺前に到着した場合は、北山通り沿いの「南門」からもお薦め。勅使門に至る参道が風情あって素敵なんですよ。

時間に余裕があれば、是非両方歩いてみてください。

大徳寺 境内図

・総門

総門は駐車場の奥です。門をくぐると、右手に勅使門が現れます。

大徳寺 総門
▲大徳寺 総門

・南門

北大路通り沿いにあります。門は奥まった場所にあり、ひっそりした印象。門をくぐると現れる松並木の参道は落ち着いた雰囲気が素敵です。

大徳寺 南門
▲南門
大徳寺 参道
▲参道、左手には塔頭・黄梅院

関連記事です!

大徳寺の塔頭寺院を紹介しています。
大徳寺 龍源院 | 枯山水庭園・石庭が楽しめる、洛北の苔寺
大徳寺 興臨院 | 前田利家ゆかりの塔頭寺院。枯山水や茶室が見どころ
大徳寺 瑞峯院 | 枯山水庭園 独座庭の見どころとアクセス
大徳寺 黄梅院 | 織田信長、豊臣秀吉、千利休ゆかりの寺院

ミィコ

大徳寺を訪れる時は、お隣の今宮神社の参道のあぶり餅で休憩もおすすめです^^

※この記事の史実に関する記載は、大徳寺パンフレット、駒札、Wikipedia等を参考に作成しました。