墨染寺 | 別名は桜寺。墨染桜が有名な桜の隠れた名所

墨染寺 本堂

墨染寺(ぼくせんじ)は、「墨染桜寺(ぼくぜんさくらでら)」「桜寺」とも呼ばれる日蓮宗の寺院。境内に咲く墨染桜(すみぞめざくら)が寺号の由来で、この付近の地名、墨染(すみぞめ)の由来でもあります。

参拝するなら、何といっても桜の季節がおすすめ!

墨染桜の由来やアクセス方法をご紹介します。

基本情報

墨染寺(ぼくせんじ)
所在地 京都市伏見区墨染町741
TEL.075-642-2675

【1】墨染桜とは?

遥か昔、太政大臣の死をいたんで薄墨色の花を咲かせた桜の木があったと伝わります。その桜は後に「墨染桜」と呼ばれ、この付近の地名「墨染」の由来にもなりました。

現在、四代目墨染桜がすくすく成長中です。

・墨染桜の伝説

平安時代前期、この近辺には貞観寺(じょうがんじ)という、清和天皇の勅願により摂政 藤原良房(ふじわら の よしふさ)が建立した広大な寺院がありました。

伝説となった出来事は寛平3年(891年)の春、良房の養子で太政大臣の藤原基経(ふじわら の もとつね)が亡くなった時におこりました。

基経の死を悼んだ友人の上野岑雄(かんつけのみねお)が「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け(古今集)」と詠んだところ、境内の桜が薄墨色の花を咲かせたというのです。

この話は当時の人々に大きな感銘を与え、儚く美しいロマンチックな伝説として今に伝わります。

「貞観寺」は現在の墨染寺より東に位置していたそうですが、応仁の乱(1467~1478年)で廃絶。境内にあったという墨染桜は、安土桃山時代に豊臣秀吉が貞観寺跡地に再興した「墨染桜寺」に引き継がれました。

・四代目 墨染桜

4代目墨染桜は、白からピンク色の可愛い花で、ギャザーがよったような花びらが乙女チックな感じ。悲しみは癒えて薄墨色は消えたようです。

墨染桜(スミゾメザクラ)
[1] サトザクラの園芸品種。花は葉より早く咲き、単弁で大きく径三・五センチメートルぐらいで芳香に富む。花色はかすかに紅色を帯びた白色。花芽は緑色。観賞用に栽植される。
[2]京都市伏見区深草墨染町の墨染寺(通称、桜寺)の境内にある桜。藤原基経の死を悼んで上野峯雄(かみつけのみねお)が「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け」と詠んだところ、墨染色に咲いたという。

出典:精選版 日本国語大辞典
墨染桜
▲四代目 墨染桜
墨染桜
▲四代目 墨染桜 2022年4月8日

・歌舞伎に登場した墨染桜

天明4年(1784年)、江戸桐座で「小野小町・小町桜・墨染」がキーワードの歌舞伎「重重人重小町桜(じゅうにひとえ こまちざくら)」、「積恋雪関扉(つもるこい ゆきの せきのと)」が上演されヒットしました。

江戸時代になると、墨染は京街道・奈良街道・大津街道が交差する宿場町として賑わい、下流遊郭や常設の芝居小屋も繁盛していたそうです。

墨染寺境内に置かれている「墨染井」は、明和5年(1768年)歌舞伎役者・2代目中村歌右衛門が寄進したものです。

小町桜(こまちざくら)
[1] 桜の花の美称。
[2] 植物「墨染桜(すみぞめざくら)」の異名。
※常磐津・積恋雪関扉(関の戸)(1784年)「崩御を悲しむあまりにや、薄墨色に咲たるを、そなたの歌の徳によって、盛の色を増したれば、小町桜と言ひ伝ふ」

出典:精選版 日本国語大辞典より抄録
Yoshitoshi The Spirit of the Komachi Cherry Tree.jpg
▲『小町桜の精』月岡芳年, パブリック・ドメイン, リンク
墨染井
▲2代目中村歌右衛門寄進「墨染井」

・その他の桜

ソメイヨシノや、八重桜、黄緑の桜なども咲き乱れます^^

墨染寺
▲本堂と桜
墨染寺 境内
▲八重桜
墨染寺 桜
▲ソメイヨシノ
墨染寺 黄桜
▲黄桜
ミィコ

とっても可愛い花を咲かせている墨染桜。薄墨色に染まるような事件が起きないことを祈ります^^

【2】墨染寺の歴史

「墨染桜」があったと伝わる貞観寺は、応仁・文明の乱により廃絶しました。

そして安土桃山時代、「墨染桜の伝説」に感銘を受けた豊臣秀吉が貞観寺の跡地に再興した「墨染桜寺」が「墨染寺」のはじまりです。

しかし、後に衰微・移転縮小したため、現在は往時の栄華を偲ばせるような面影はありません。

墨染寺 門
▲墨染寺の山門
桜寺 扁額
▲桜寺の扁額

・平安時代|貞観寺の墨染桜

仁寿1年(851年)摂政・藤原良房が、娘の明子が産んだ惟仁親王(清和天皇)加護のため、空海の弟子真雅(しんが)と図って嘉祥寺(かしょうじ)に西院を建立。

貞観4年(862年)西院を嘉祥寺から独立させ、元号の「貞観寺」に改称。広大な堂舎が造営され、本寺の嘉祥寺をしのぐ勢いを誇り繁栄しました。

寛平3年(891年)太政大臣 藤原基経が亡くなった際には、境内の桜が薄墨色の花を咲かせたという「墨染桜」の伝説も生まれました。

その後、摂関家の衰退とともに廃れていき、応仁・文明の乱により廃絶しました。

・安土桃山時代|豊臣秀吉が再興

安土桃山時代・天正年間(1573-1591年)頃、豊臣秀吉は細川幽斎より聞いた「墨染桜の伝説」に感銘を受け、顕彰するために貞観寺の再興を思い立ったといわれます。

秀吉の姉・瑞竜尼(日秀尼)が法華経に篤く帰依し、日秀上人(にっしゅう)と親交があったことから、貞観寺(現在地より東にあった)跡地を日秀上人に寄進。

貞観寺の「墨染桜」を引き継いで、日蓮宗の「墨染桜寺(ぼくせんおうじ)」として再興させました。

墨染桜寺は御成間御殿(おなりまごてん)をはじめ、7つの子院塔頭をもつ大寺院に整えられ、秀吉も度々寺を訪れたといいます。

豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)[1536~1598]
安土桃山時代の武将。織田信長に仕え、信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一。この間、天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり、豊臣を賜姓。また、検地・刀狩りなどを行い、兵農分離を促進した。のち、明国征服を志して朝鮮に出兵したが、戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。豊太閤。

細川幽斎(ほそかわ ゆうさい)[1534~1610]
安土桃山時代の武将・歌人。名は藤孝。足利義晴・義輝・義昭に仕え、のち織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に重用された。歌人としても有名で、三条西実枝から古今伝授を受けた。著「衆妙集」「詠歌大概抄」「百人一首抄」など。

出典:小学館デジタル大辞泉より抄録

・江戸時代以降|縮小、荒廃、復興

徳川の時代になると凋落し、塔頭・威徳院(いとくいん)に統合縮小され現在地へ移転。

その後、荒廃。年代は不詳ですが、宇治 直行寺・梅津 本福寺に住した、第37世 学妙上人により復興されたといいます。

名所図会 墨染寺
▲江戸時代・天明6年(1786年)頃の墨染寺|都名所図会 6巻
ミィコ

かつて広大だった寺院が歴史の流れにもまれて、こじんまりとしたお寺として残っているのもロマンですね^^

【3】墨染寺 アクセス

  • 京阪本線「墨染駅」から、徒歩約3分。
  • JR奈良線「JR藤森駅」から、徒歩約13分。

[地図]
A地点:墨染寺

B地点:京阪本線「墨染駅」
C地点:JR奈良線「JR藤森駅」

・京都駅から

  • JR奈良線 城陽、奈良行に乗車「JR藤森駅」下車。乗車時間:約9分。改札口を出て右へ徒歩約13分。
    ※快速は停車しません。
  • JR奈良線 城陽、奈良行に乗車「東福寺駅」下車。 [京阪本線に乗換]→ 淀屋橋or中之島行きに乗車「墨染駅」下車。合計所要時間:約15~21分。改札口を出て右へ徒歩約3分。
    ※特急は停車しません。

・三条京阪から

  • 京阪本線 淀屋橋or中之島行に乗車「墨染駅」下車。乗車時間:約15分。改札口を出て右へ徒歩約3分。
    ※特急は停車しません。
ミィコ

墨染駅近辺には、菖蒲の節句発祥の地・藤森神社があります。

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※この記事の史実に関する記載は、墨染寺駒札、書籍「京都伏見歴史紀行」「京都の寺社505を歩く」、Wikipedia、京都風光サイト等を参考に作成しました。