萬福寺 | 中国様式の禅寺、見どころと宇治近辺の名所旧跡紹介

黄檗山萬福寺

萬福寺(まんぷくじ)は、日本三大禅宗のひとつ黄檗宗(おうばくしゅう)の大本山です。

禅 ─ZEN─ は、日本文化として海外からも注目されていますが、もともとは中国から入ってきた宗教。日本の禅宗は、臨済宗・曹洞宗・黄檗宗の三宗があり、臨済宗・曹洞宗が日本風にカスタマイズされて発展したのとは異なり、黄檗宗は中国の明朝様式を継承している点が特徴です。

見どころは、日本の一般的な仏教寺院とは異なる雰囲気の中国様式の建物や仏像。中国の精進料理「普茶料理」もいただくことができます(要予約)。

参拝ポイント、アクセス方法、近くの名所旧跡などをまとめました。

基本情報

黄檗山 萬福寺
所在地 宇治市五ケ庄三番割34
TEL.0774-32-3900
黄檗山萬福寺 公式サイト
拝観時間 9:00~17:00(受付は16:30まで)
拝観料 大人・中高生 500円、小学生 300円
※朱印所・売店16:30まで

【1】萬福寺とは

黄檗山萬福寺は、江戸時代初期に中国臨済宗の高僧「隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師」によって開創された禅宗寺院で、日本の黄檗宗の大本山です。

隠元禅師は宗教以外の分野でも、江戸時代の日本文化全般に大きな影響を及ぼしました。

・創建までの歩み

  1. 隠元禅師は中国明時代末期の臨済宗の高僧で、福建省「黄檗山萬福寺」の住持。その名声は遠く日本にまで知られていました。
  2. 承応3年(1654年)禅師は日本からの度重なる招請に応じ、63歳の時に3年間の予定で弟子20名を伴い来日。長崎の興福寺、高槻市の普門寺に住しました。3年後、日本側の信奉者たちは禅師が日本に留まることを強く希望し江戸幕府に働きかけました。
  3. 万治元年(1658年)禅師は江戸へおもむき、第4代将軍 徳川家綱に拝謁。
  4. 万治3年(1660年)後水尾法皇・徳川幕府の崇敬を得て宇治に約9万坪の寺地を賜ります。
  5. 寛文元年(1661年)中国の黄檗山を模した明朝様式の禅寺を創建。寺名も中国と同じ「黄檗山萬福寺」とし、禅師は日本に骨を埋めることを決意しました。

・隠元禅師

隠元禅師は中国式の禅文化を日本に伝えるとともに、美術、医術、建築、音楽、史学、文学、印刷、煎茶、普茶料理等の広汎な文化や、インゲンマメ、タケノコ、スイカ、レンコンなどの作物も持ち込み、宗教界だけにとどまらず、広く江戸時代の文化全般に影響を及ぼしました。

特に、禅師が持ち込んだ普茶料理は、中国式の精進料理(薬膳に通じる医食同源の料理)で、基本的に一つの座卓を4人で囲み、一品ずつの大皿料理を分け合って食べるという様式が非常に珍しがられたそうです。

炒めや揚げといった中国風の調理技術には胡麻油が用いられ、日本では未発達だった油脂利用を広めるきっかけになりました。

萬福寺にて、普茶料理を体験することかできます。要予約(3日前の午前中までに予約)

隠元隆琦 いんげん りゅうき
[1592-1673] 中国,明末の僧,日本の黄檗宗の開祖。
家は貧しく農耕,きこりを業としているうちに若くして母を失った。29歳で地元の黄檗山萬福寺の鑑源興寿について出家,各地を修行行脚ののち臨済宗を学び,萬福寺住職の費隠通容の跡を継いで臨済禅の宣揚に努めた。
承応3(1654)年,63歳で長崎の興福寺住持逸然性融の招きにより来朝,初め長崎興福寺,さらに崇福寺を経て,明暦1(1655)年摂津国富田の普門寺に入り,万治1(1658)年には江戸で将軍徳川家綱に謁見した。京都でも後水尾天皇の母,中和門院に仕えた文英尼の帰依を受け,同尼を通じて,天皇はじめ公家の信望を得た。
同 2年には後水尾天皇より宇治に地を賜り,家綱の上旨もあって寛文1(1661)年黄檗山萬福寺を創建した。
のちに住持の席を木庵性瑫に譲り,晩年を寺内の松隠堂で送った。82歳で示寂。後水尾上皇から大光普照国師の号を賜る。隠元の来日によってさまざまな中国文化が伝えられ,絵画,書,彫刻などの美術は日本に大きな影響を与えた。隠元自身も書に優れ,黄檗の三筆の一人とたたえられた。また,インゲンマメ,スイカ,モウソウチク(たけのこ)といった食材,およびそれらを使用した精進料理の普茶料理,木魚などの楽器ももたらされた。著作に『黄檗清規』『黄檗山志』など多数。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 より抄録

・黄檗宗とは

創建当初は臨済正宗や臨済禅宗黄檗派と称していましたが、明治9年に「黄檗宗」として独立。現在、日本の禅宗は、臨済宗・曹洞宗・黄檗宗の三宗に分類されています。

「黄檗宗」は臨済宗・曹洞宗とは異なり、中国的な文化を色濃く残しているという特徴があります。

萬福寺の住職は十三世竺庵(じくあん)まで、代々中国から渡来した僧侶だったこともあり、仏教儀礼も明代のものに従い読経も黄檗唐音(とういん)で行われていました。

現在も朝夕のお勤めをはじめ儀式作法等にその伝統が受け継がれています。

萬福寺 総門
▲萬福寺 総門 屋根の飾りは摩伽羅(まから)
萬福寺 三門
▲萬福寺 三門
萬福寺 開山堂
▲開山堂
ミィコ

開山の隠元禅師は、現代の日本文化に多大な影響を与えていたんですね! 江戸時代まで日本には、揚げ物・炒め物メニューがなかったとは!

【2】萬福寺 見どころ

萬福寺の伽藍は中国の明時代末期頃の様式。屋根つきの回廊で結ばれ、雨の日でも滞りなく法式を執り行うことができるようになっています。

資材も南アジア、東南アジア原産のチーク材を使用。主要建物23棟、回廊、額、対聯(ついれん/細長い書軸)などが国の重要文化財です。

・中国風の意匠に注目

日本の他の寺院ではあまり見かけない、中国風のデザインや技法が多用されているのが特徴です。

例えば、総門の屋根に飾られているインドの想像上の動物「摩伽羅(まから)」、「卍字くずし」の勾欄(こうらん)、アーチ形の「黄檗天井」、円形の窓、扉に彫られた「桃符(とうふ)」など。

また、境内の参道も、龍の背の鱗に見立てた独特の意匠です。龍文は中国では天子・皇帝の位を表し、中央の正方形の石の上を歩けるのは住持・高僧のみで修行僧は両端の細長い石條の上を歩きます。※参拝者は中央を歩いてOKだそうです。

萬福寺 参道(石條)
▲龍の背の鱗に見立てた参道
萬福寺 法堂
▲卍字くずしの勾欄
萬福寺 大雄寶殿
▲黄檗天井と円形の窓
萬福寺 桃符
▲扉に彫られた桃符

・天王殿|布袋尊、韋駄天

萬福寺は中国様式の伽藍配置なので、「三門」と「本堂(大雄寶殿)」の間に「天王殿」があります。天王殿には一般的に「弥勒菩薩(布袋尊)」「韋駄天」「四天王」が祀られます。

京都の「都七福神」の一柱でもある「布袋尊」は三門側、背中合わせに祀られている「韋駄天」は、大雄寶殿の本尊「釈迦如来」と向き合う位置関係になっています。そして四天王は左右に安置されています。

萬福寺 天王殿
▲天王殿
萬福寺 布袋尊
▲弥勒菩薩(布袋尊)坐像
萬福寺 韋駄天
▲韋駄天は伽藍を守る護法神

「布袋尊」は日本独自の信仰「七福神」の一人です。

七福神がまつられた寺社をお参りすると縁起がよいと言われ、全国に「七福神まいり」「七福神めぐり」の風習があります。室町時代に京都から始まりました。

京都の「都七福神」は、ゑびす神/ゑびす神社、大黒天/松ヶ崎大黒天(妙円寺)、毘沙門天/東寺、弁財天/六波羅蜜寺、福禄寿神/赤山禅院、寿老神/革堂、布袋尊/萬福寺です。

布袋尊(ほていそん)= 弥勒菩薩(みろくぼさつ)の化身
広くおおらかな心で富貴をつかさどる神として信仰されています。

七福神の中では唯一、実在の人物と伝わります。モデルは、後梁時代(907年~923年)の、中国浙江省の契此(かいし)というお坊さんです。

大きな袋を抱えて国中を旅していたことから、いつしか「布袋」と呼ばれるようになりました。訪れた先々で出会った貧しい人々に救いの手を差し伸べ、袋の中から必要な物を与えました。

そして、救われた人から御礼に戴いた品はまた袋の中に入れ、再び行脚の旅に出るのです。これを繰り返しているうちに袋はどんどん大きくなっていきました。

布袋さんの袋の中には人々の感謝と慈悲の心が詰まっているのです。その徳の高さから、中国の弥勒菩薩信仰と交わり「弥勒菩薩の化身」と言われるようになり、中国や台湾では「弥勒(ミロフ)」と呼ばれています。

韋駄天(いだてん)
バラモン教から仏教に導入された、仏法や伽藍(がらん)の守護神。

釈迦が亡くなった時、仏舎利をぬすんだ魔鬼を非常な速さで追跡して取り戻したという俗説から、足のはやい神とされます。像は、甲冑をつけ宝剣もつ姿で表されます。

・大雄寶殿|本尊釈迦如来、十八羅漢

「大雄寶殿(だいゆうほうでん)」は日本の寺院で言うと「本堂」にあたる伽藍です。

中央に釈迦如来、脇侍として左右に摩訶迦葉(まかかしょう)と阿難陀(あなんだ)の両尊者が祀られ、周りには十八羅漢が取り囲むように安置されています。

中でも、十八羅漢の一体「羅怙羅尊者像(らごらそんじゃぞう)」は特異なデザインで有名です。両手で自分のお腹を開いていて、中にはお釈迦さんの顔が!!これは、どんな人間の心にも仏が宿っているという教えを伝えているそうです。中国清時代の仏師、范道生(はんどうせい、1637年~1670年)作。

萬福寺 大雄寶殿
▲萬福寺 大雄寶殿
萬福寺 釈迦如来坐像
▲釈迦如来坐像(本尊)
萬福寺 羅睺羅尊者
▲十八羅漢像一部 中央は羅睺羅尊者

・開梆(かいぱん)|木魚の原形

萬福寺の僧衆の食堂「斎堂」前方入口の前には、「開梆」と「雲版」があります。

開梆とは、禅寺で使われていた木魚の原型とされる魚板(ぎょばん)で、日常の行事や儀式の刻限を知らせる魚の形をした法器のことです。

魚は目を閉じることがないので、昼夜不眠と考えられ、修行僧の怠惰をいましめるために作られたものだそうです。

※魚鼓(ぎょく)、木魚鼓(もくぎょく)とも呼ばれました。

萬福寺 開梆
▲ 開梆
ミィコ

仏像に興味がある方には、とても見ごたえのあるお寺だと思います!
ちなみに、私の記憶の中にあった萬福寺のイメージは「魚板」でした^^

【3】御朱印、おみくじ

開梆のある斎堂のすぐ近くに、御朱印所とお土産売店があります。

・御朱印

大雄寶殿と布袋尊の御朱印です。御朱印をお願いしたら、どちらにされますか?と写真の2種類のサンプルを提示されました。検索すると他の御朱印もあるようです。時期によって変わるのかも?

萬福寺 御朱印
▲御朱印

・可愛い布袋尊の置物おみくじ

都七福神の色紙や、お守り、おみくじ、お菓子などのお土産等も充実。布袋さんの可愛い置物おみくじがありました!

萬福寺 置物おみくじ 布袋尊
▲布袋さん おみくじ
ミィコ

布袋さんのおみくじは、金色の布袋像とは、かなり違うテイストの可愛いおみくじです^^

【4】萬福寺 アクセス

JR奈良線、京阪宇治線「黄檗駅」が最寄り駅です。萬福寺まで徒歩約5分

・京都駅から

JR奈良線 奈良行、城陽行、宇治行に乗車、「黄檗駅」下車。
※快速は停車しません。乗車時間 約23~25分。

・祇園四条から

京阪本線 特急 淀屋橋行き乗車、「中書島駅」で宇治線に乗換「黄檗駅」下車。
※乗車時間 約28分。

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時間が限られている場合は、宇治と一緒に観光すると効率的です。

【5】宇治近辺の名所旧跡

宇治は、平安時代から貴族の別荘地で、源氏物語の舞台にもなっている自然豊かな地域です。世界文化遺産にもなっている平等院、宇治上神社など、歴史的に価値の高い文化財もいっぱい。

また、お茶の名産地でもあり、宇治茶として有名です。お茶屋さんや、お茶を使ったスイーツのお店もたくさんあります。

・黄檗寺→ 三室戸寺

最寄り駅は京阪宇治線「三室戸駅」。黄檗駅から三室戸駅まで約2分。三室戸寺三門までは徒歩約15分です。

西国三十三所第10番札所。5月はツツジ、シャクナゲ、6月はアジサイ、7月はハス、さらに秋は紅葉の名所で有名。

三室戸寺 公式サイト

・黄檗寺→ 平等院

世界文化遺産。1052年に藤原頼通によって開かれた寺院で鳳凰堂が有名。

最寄り駅はJR宇治線、京阪宇治線「宇治駅」。黄檗駅から宇治駅まではJRで約3分、京阪宇治線で約5分です。

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・黄檗寺→ 宇治上神社と宇治神社

宇治上神社は世界文化遺産。平安時代の優美な建築を見ることが出来ます。宇治上神社と宇治神社は、昔は両社を合わせて「宇治離宮明神」と総称されていました。

最寄り駅はJR宇治線、京阪宇治線「宇治駅」。黄檗駅から宇治駅まではJRで約3分、京阪宇治線で約5分です。

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ミィコ

参拝した日は年末だったので、新年の飾りが中国風で異国情緒たっぷりでした。

※この記事は、黄檗山萬福寺公式サイト、書籍「京都の寺社505を歩く」等を参考に作成しました。