本能寺 | 織田信長が明智光秀に討たれた「本能寺の変」の舞台

本能寺タイトル

本能寺は、日本史上の大事件のひとつ「本能寺の変」の舞台になった場所として有名です。

天正10年(1582年)6月2日早朝、室町幕府を滅ぼし天下統一を目指していた織田信長が、滞在していた本能寺の宿所を家臣・明智光秀の軍勢に襲撃され、御殿に火を放ち自刃した事件ですね。

事件当時の本能寺は四条西洞院にあり、都随一の大伽藍を誇っていましたが、本能寺の変で発生した火災で伽藍を焼失。天正19年(1591年)に豊臣秀吉の命で現在地・寺町御池に移転しました。

その後も火災で2度焼失、寺域も縮小され現在に至ります。本能寺の歴史や見どころ、御朱印をご紹介します。

基本情報

本能寺 [法華宗大本山 本能寺] 
所在地 京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522
TEL.075-231-5335
参拝時間 6:00~17:00
御朱印 9:00〜17:00
境内無料

大賓殿宝物館
開館時間 9:00〜17:00(入館は16:30まで)
休館日   年末年始・展示替え日
料金 大人1名500円、中・高校生300円、小学生250円
※大賓殿特別展開催期間中は料金が異なります。

本能寺 公式サイト

【1】本能寺の由緒と歩み

本能寺は、法華宗本門流(ほっけしゅう ほんもんりゅう)の大本山のひとつです。

その歴史は室町時代の応永22年(1415年)、法華宗の祖・日蓮の教えをもとに、日隆(にちりゅう)が創建した「本応寺」から始まります。

永享5年(1433年)に寺号を「本能寺」に改め、法華経を広める霊場として繁栄を極めました。後の応仁の乱 [1467年~1477年] で京が荒廃した時に復興に尽力した町衆も大半が法華宗門徒でした。

その後も戦乱などで何度も焼失しますが、再建復興を繰り返しながら信仰が受け継がれています。

本能寺 表門
▲本能寺の表門

・本能寺の歩み

  1. 応永22年(1415年)法華宗(日蓮宗)の僧・日隆が創建。当初の寺号は「本応寺」。しかし法華経の解釈をめぐり対立した妙本寺宗徒によって破却され河内方面へ避難。
  2. 永享元年(1429年)帰洛して大檀那・小袖屋宗句の援助により、現在の西陣あたりに本応寺を再建。
  3. 永享5年(1433年)檀那・如意王丸から六角大宮の土地の寄進を受け再建し、寺号を「本能寺」と改める。法華経を広める霊場として繁栄を極め、足利氏の保護も受ける。天文5年(1536年)天文法華の乱で堂宇を焼失し堺へ避難。
  4. 日承(にちじょう)上人が、天文年間(1537年~1538年頃)に京へ戻り本能寺を再建。天文14年(1545年)四条西洞院に壮大な堂宇が築かれ、30余の子院を擁するなど繁栄。天正10年(1582年)本能寺の変で焼失。
  5. 文禄元年(1592年)日衍(にちえん)聖人により再建、秀吉の命で現在の御池通と京都市役所を含む広大な敷地に移転。戦国大名との関係も深く、末寺92を数える大寺院になる。天明8年(1788年)天明大火で焼失。
  6. 天保11年(1840年)日恩上人によって再建。しかし、元治元年(1864年)の禁門の変(蛤御門の変)に伴い発生したどんどん焼けにより堂宇を焼失。
  7. その後、明治の廃仏毀釈などの影響もあり再建は遅れ寺地も縮小。昭和3年(1928年)に本堂が完成し現在に至ります。

日隆(にちりゅう)[1385~1464年]
室町時代の法華宗(日蓮宗)の僧。本門法華宗・法華宗本門流の祖。本門佛立宗では「門祖」と称えられている。

出典:Wikipedia より抄録

日承(にちじょう)[1501~1579年]
伏見宮第5代邦高親王の子。本能寺8世。本能寺中興の祖。

天文5年(1536年)天文法華の乱で本能寺も他の法華宗寺院同様に堺に逃れました。堺で法燈を継承した日承は、他の法華宗寺院にさきがけて一足早く京都に帰り、天文14年(1545年)には本能寺を再建。以来、本能寺が洛中法華宗寺院中で最も隆盛を極めるに至りました。

天文法華の乱 [天文5年(1536年)]
比叡山の僧兵集団が京都の日蓮宗を攻撃した宗教戦争。
天文年間、京都では日蓮宗(法華宗)の信仰が多くの町衆に浸透し強い勢力を誇るようになっていました。法華衆が比叡山延暦寺に宗教問答を呼びかけ勝利し、比叡山の面目をつぶしたことをきっかけに対立が激化。延暦寺が朝廷や幕府に法華衆討伐の許可を求め、法華衆を撃滅させると、日蓮宗の21本山は京から追放され堺に逃れました。
6年後の天文11年(1542年)、日蓮宗は朝廷から京都帰還を許す勅許が下り、天文16年(1547年)には延暦寺と日蓮宗との間に和議が成立しました。

本能寺 日蓮像
▲表門にある法華宗の宗祖・日蓮の像。
本能寺の変以前からあるとか??
ミィコ

本能寺の変が有名すぎて、法華宗本門流の大本山ということは初めて知りました。

【2】本能寺と戦国武将

戦国時代を勝ち抜くためには、武器のクオリティが運命を左右します。

本能寺は全国津々浦々に法華経を布教した結果、弓矢や刀より圧倒的に攻撃力の高い鉄砲の情報をいち早く手に入れました。

先見の明がある戦国武将が見逃すわけはありませんよね。

・本能寺と種子島(鉄砲)

本能寺開山以来、歴代貫主が法華経を地方に布教。日承の時代には、末寺が畿内・北陸・瀬戸内沿岸・種子島まで広布し、本能寺を頂点とする本門流教団が成立していました。

天文12年(1543年)、種子島に漂着した異国の商人と筆談でコミュニケーションをとったのも法華宗の僧です。この時、島主が火縄銃2挺を購入。これを見本にどんどん複製されていきました。

つまり、本能寺はすでに種子島に布教していたため、鉄砲・火薬の情報もいち早く入手できたのです。

本能寺文書によると、遅くとも天文18年(1549年)までに、種子島の本源寺から堺の顕本寺(法華宗)に鉄砲が届けられており、足利幕府の管領・細川晴元が、鉄砲献上に対する礼状を、両寺を仲介した法華宗の総本山である本能寺に宛てて出しています。

その後、鉄砲は堺や根来・国友など各地でも生産され、島津氏や三好氏、足利将軍家などの大名はその充実に力を注ぎ、特に織田信長は鉄砲隊を編成するなど鉄砲の普及に大きな影響を与えました。

・織田信長の定宿?

信長は、元亀元年(1570年)8月に上洛の際に本能寺を宿所としました。そして同年12月には本能寺を定宿に指定、他の者は寄宿してはならないとの指示をしています(本能寺文書)。

しかし、その後10年も本能寺は利用せず、主に妙覚寺を宿所とするようになります。当時の妙覚寺住職・妙覚寺19世 日饒(にちじょう)は美濃国の戦国大名・斎藤道三の子で、織田信長にとっては義弟という縁があったからのようです。信長の正室は斎藤道三の娘・濃姫。

結局、信長の20数回に及ぶ上洛中の宿所として使用されたのは、本能寺が4回(本能寺の変を含む)、妙覚寺が18回だったそうです。ちなみに本能寺の変が起こった日は、信長の息子・信忠が妙覚寺に滞在していました。

ミィコ

戦国武将と鉄砲と寺院。昔も今も、権力と武力と財力は結びつきやすいってことですね。

【3】本能寺の見どころ

メインの見どころは本堂・信長公廟。
信長ゆかりの品が展示されている宝物館(有料)も要チェックです!

・本堂

昭和3年(1928年)の建立。設計は京都大学・天沼俊一 教授。
日蓮宗系寺院本堂の標準的な形式で細部は古典に忠実な設計だそうです。総けやき材で、創立当時の面影を残していると言われます。中に入って参拝も出来ます。

本能寺 本堂
▲本能寺 本堂

・信長公廟、拝殿

織田信長の廟所は本堂の東にあります。織田信長の三男・織田信孝が、灰燼収集をした後、本能寺跡地を信長の墓所と定めました。

本能寺の変から1か月後、信孝からの依頼状に応えて墓を建立。遺骨が見つからなかったため、信長が所持した太刀を納めて供養したとのことです。寺院の移転ともに現在地に移されました。

本能寺 信長公廟 拝殿
▲信長公廟 拝殿
本能寺 信長公廟
▲信長公廟

・大寶殿宝物館

度重なる災禍をくぐり、守り抜かれてきた宝物が展示・公開されています。織田信長が所持していたといわれる釜や茶碗、香炉「三足の蛙」、肖像や太刀、小姓の蘭丸の刀などを見ることが出来ます。(有料)
展示品の写真撮影は不可ですが、「本能寺の変と天下人」開催時は、ロビーに写真OKの鎧兜の展示がありました。明治時代に信長のイメージで作られたものだそうです。
※この記事のタイトルイメージに使用

本能寺 宝物館

・その他

本堂の右手には塔頭寺院が建ち並び、本堂の裏には供養塔やお墓があります。

塔頭寺院

現在、塔頭寺院は七つあります。
恵昇院(えしょういん)、蓮承院(れんじょういん)、定性院(じょうしょういん)、高俊院(こうしゅんいん)、本行院(ほんぎょういん)、源妙院(げんみょういん)龍雲院(りょううんいん)。

本能寺 塔頭
▲塔頭寺院が並んでいます。

日承上人の墓

中興の祖。本能寺 第8世 日承上人の墓。
皇室・伏見宮家出身の方だったので、宮内庁の駒札も立っています。場所は本堂の裏、一番奥です。

本能寺 日承上人の墓
▲中興の祖・日承上人の墓
ミィコ

現在、本能寺の周りは繁華街。ビルに囲まれ、境内にもホテルや宝物館・立体駐車場が建てられ、思ったよりは狭いと感じるかも‥

【4】御朱印

御朱印は妙法(みょうほう)と書かれています。妙法とは、大乗仏教の代表的な経典「法華経」のことだそうです。また、法華宗の寺院なので御首題「南無妙法蓮華経」も拝受できます。

本能寺 御朱印
ミィコ

ちなみに塔頭寺院でも、ご住職がおられれば、御朱印・御首題を拝受する事ができるそうです。志納金は1枚300円。小銭を用意して伺いましょう。

【5】本能寺 アクセス

最寄り駅は、地下鉄東西線 「京都市役所前駅」、京阪本線「三条駅」です。
本能寺の表門は寺町通にあります。

[地図]
B地点:本能寺の表門。
A地点:京阪「三条駅」
C地点:ゼスト御池 5番出口(地下鉄東西線 「京都市役所前駅」)

・京都駅から

  • 京都駅前バスターミナルのりば案内
    市バス [A2のりば] 市バス205系統 四条河原町・北大路バスターミナル行に乗車「市役所前駅」下車すぐ。乗車時間:約18分。
  • 地下鉄烏丸線 国際会館行に乗車「烏丸御池駅」下車。[乗換え]→地下鉄東西線(御陵・六地蔵/びわ湖浜大津行)乗車「京都市役所前」下車。所要時間:約10分。ゼスト御池の5番出口を探しましょう。
  • TAXI 所要時間 約9分
    総距離 約2.9km タクシー料金検索
    ※料金・所要時間は実際とは異なる可能性があります。

・三条京阪から

三条通を西に進み、寺町通を右へ。徒歩約5分。

ミィコ

本能寺は、四条から歩いても10分くらいです。寺町、新京極はお店が建ち並ぶ賑やかなエリア。お買い物も一緒に楽しめます^^

※この記事の史実に関する記載は、本能寺パンフレット、公式サイト、駒札、書籍「京都の寺社505を歩く」、Wikipedia等を参考に作成しました。