神護寺は、紅葉の名所として知られる京都高雄にある古刹。
開基は平安京造営に尽力した朝廷の高官・和気清麻呂。宇佐八幡宮神託事件で、天皇の座を奪おうとする僧侶・道鏡の野望をあばき、皇統断絶の危機を救ったことでも有名です。
清麻呂の没後は、遺志を継いだ息子たちが新しい仏教を修業中の最澄や空海をサポート。神護寺は日本仏教にとって重要な2人の僧が数年間にわたり親交を続け、天台宗と真言宗が交流する舞台となりました。
和気清麻呂・最澄・空海にまつわるエピソード、見どころ・アクセスをご紹介します。
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【1】神護寺とは?
神護寺は、高野山真言宗遺迹(ゆいせき)本山。
空海(弘法大師)が唐留学から帰国後、和気氏に招かれて14年間住持した寺院です。
※空海はこの後に東寺、高野山を運営。
・神護寺の歩み
- 天応元年(781年)和気清麻呂が国家安泰を祈願し、河内に「神願寺(場所不明)」、山城に私寺として「高雄山寺」を建立。
・神願寺:宇佐八幡大神の神託「一切経を写し、仏像を作り、最勝王経を読誦して一伽藍を建て、万代安寧を祈願せよ」を成就するためと伝えられます。
・高雄山寺:和気氏の菩提寺。しかし単なる菩提寺ではなく、奈良仏教に飽きたらず山岳修行を志す僧たちの道場として建てられたと考えられています。 - 延暦18年(799年)清麻呂が没し、高雄山寺の境内に墓が祀られ和気氏の菩提寺としての性格を強めます。
- 清麻呂の子(広世・真綱・仲世)は亡父の遺志を継ぎ、最澄、空海を相次いで高雄山寺に招き仏教界に新風を吹き込みます。
- 天長元年(824年)真綱・仲世の要請により「神願寺」と「高雄山寺」を合併。国家公認の官寺(定額寺)として寺名も「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)/神護寺」と改め、一切を空海に任せて以後真言宗の寺として今日に伝えています。
- 正暦5年(994年)と久安5年(1149年)の二度の火災、鳥羽法皇の怒りに触れるなど、平安時代末期は衰微して住持の僧もいない状態となります。
- 仁安3年(1168年)武士・真言宗の僧である文覚(もんがく)が、生涯の悲願として神護寺再興を決意して草庵を作り、源頼朝の援助を得て、文治6年(1190年)に再興。
- その後は、弟子の上覚や明恵に受け継がれました。
・名前の由来
神護国祚真言寺とは「八幡神の加護により国家鎮護を祈念する真言の寺」という意味だそうです。和気清麻呂が受けた宇佐八幡大神の神託が引き継がれている名前ですね。
神道の神様・八幡大神のご神託が、仏像を作り寺を作れって面白いです。奈良時代は神仏習合していた事がよくわかります^^
【2】新しい仏教を育てた神護寺
朝廷の高官・和気清麻呂(わけのきよまろ)は、腐敗しきった奈良仏教に代わる、平安時代にふさわしい新仏教を確立すべく尽力し、その遺志は息子たちに引き継がれました。
続日本後記によると、「天台・真言両宗の確立は、清麻呂の子息である和気真綱(わけ の まつな)・和気広世(わけ の ひろよ)の力によると高く評価されています。
・和気清麻呂、真綱、広世、仲世
和気清麻呂 [733-799年]
和気清麻呂は奈良末期~平安初期の公卿。神護寺の前身となる「神願寺」と「高雄山寺」を建立。
平城京の時代、神護景雲3年(769年)には、女帝 称徳天皇のお気に入りの僧・道鏡が皇位に就こうとする企てを阻止、皇統断絶の危機を救いました。(宇佐八幡宮神託事件)
その結果、道鏡の怒りを買い大隅に配流されますが、770年に称徳天皇が崩御すると道鏡は失脚。都に呼び戻され、その後は光仁・桓武天皇に仕え平安遷都に尽力しました。
和気広世 [不明]
和気広世(わけ の ひろよ)は、奈良時代末期から平安時代初期にかけての貴族・学者。和気清麻呂の長男。官位は正五位下・左中弁。大学頭、式部大輔、左中弁などを歴任。大学寮南に経書数千巻を蔵する弘文院をつくり学問の興隆に尽力。
最澄、空海の外護者として仏教の発展に貢献しました。
和気真綱 [783-846年]
和気真綱(わけ の まつな)平安時代初期の公卿。和気清麻呂の五男。延暦21年(802年)20歳で文章生に補せられ、延暦23年(804年)に初めて官吏に登用され、平城朝では治部少丞・中務少丞を歴任。人情に厚く忠孝を兼ね備えた私利私欲のない人物だたと伝わります。
天長元年(824年)かつて父・和気清麻呂が建立し定額寺に列格されていた神願寺を高雄山寺の寺域に移して、新たに神護国祚真言寺と称することを、弟・仲世と共に言上しました。
和気仲世 [784-852年]
和気仲世(わけ の なかよ)は、平安時代前期の貴族。民部卿・和気清麻呂の六男。官位は従四位上・播磨守。延暦21年(802年)文章生に補せられ、大同元年(806年)大学大允、弘仁6年(815年)式部大丞を経て、弘仁10年(819年)従五位下に叙爵。
天長元年(824年)かつて父・和気清麻呂が建立し定額寺に列格されていた神願寺を高雄山寺の寺域に移して、新たに神護国祚真言寺と称することを、兄・真綱と共に言上しました。
平安遷都後は、道鏡事件を教訓に腐敗した奈良仏教を排除するため、平安京内には官寺(東寺・西寺)以外の寺を建てることは禁止されました。
和気氏は、新しく平安仏教を育て未来を託すべく、新仏教を探究する「最澄」や「空海」をサポートしたのです。
・最澄(伝教大師)
和気広世と真綱は、比叡山中で修行を続けていた最澄(伝教大師) [767年-822年] を新しい仏教の求道者として期待をよせ、延暦21年(802年)伯母広虫の三周忌の法事供養として、高雄山寺に最澄を招き、法華経の講演を依頼しました。
最澄が唐で天台の法流をうけ、教えを広めることを願っているのを知ると、広世は最澄を還学生(短期留学生)として唐に学べるようにはからいました。
2年後の延暦23年(804年)最澄は唐に向けて出発、天台の教旨、止観の法門を授かり、805年、離唐の直前に越州龍興寺順暁から密教の灌頂も伝授されました。
帰朝後は再度高雄山寺に入り、弘世の外護のもとに、わが国最初の灌頂壇を開くこととなりました。しかし最澄が伝授した灌頂は、後に帰朝する空海に比べ十分なものではなく、数年後に改めて空海に弟子の礼をとることとなるのです。
大同元年(806年)1月天台宗を開宗。
弘仁3年(812年)高雄山寺にて空海から灌頂を受ける。
・空海(弘法大師)
空海(弘法大師)[774年-835年] は、学問僧として延暦23年(804年)に最澄とともに唐へ向けて出発。20年の留学予定でしたが、十分な成果を得て2年で帰国しました。
大宰府に滞在したのち、大同4年(809年)7月に入京を許され、和気氏の私寺であった高雄山寺に招かれて、14年間住持しました。
弘仁3年(812年)には高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇。空海が灌頂の儀式を行った3回分の受法者名簿「灌頂暦名(国宝)」には、最澄・和気真綱・和気仲世の名前も記されています。
空海と最澄は以後数年にわたり親交が続けられ、天台と真言の交流へと進展しました。※その際、密教の分野に限っては、最澄が空海に対して弟子としての礼を取っていました。
しかし、法華一乗を掲げる最澄と密厳一乗を標榜する空海とは徐々に対立するようになり、弘仁7年(816年)初頭頃には訣別するに至ります。
日本仏教の有名人として教科書にも載っている、空海と最澄の人生が交わった寺院が神護寺なんですね^^
【3】神護寺 見どころ
神護寺は、石段を上がった山の上に開ける広く清々しい境内や、金堂からの印象的な風景などを楽しむことがきる寺院です。
本堂内は拝観できますが、その他の堂は内部を見ることができません。多宝塔・大師堂は、特別拝観がありますので、興味ある方は公式ページをチェックしてください。^^
- 書院にて、宝物虫払い行事 5月1日~5日
- 11月初旬に「大師堂」特別拝観
- 多宝塔特別拝観 五大虚空蔵菩薩像
春季御開帳 5月13日~15日
秋季御開帳 10月(第2月・祝)を含む三連休
・参道
楼門まで石段が続きます。
・楼門
石段を登りきると神護寺の楼門が現れます。両脇に二天像を安置。毘沙門堂などと同様、元和9年(1623年)の建立とされます。 楼門の左手が拝観受付です。
楼門をくぐると、今までの険しい石段とは打って変わって、平坦で広々とした空間が広がり、山の上だということを忘れそうです。
・書院
非公開。毎年 5月1日~5日 に、書院にて「宝物虫払い行事」が行われます。
神護寺では平安時代前期と鎌倉時代の美術品や文化財を多数所蔵(国宝17点、重要文化財2,833点)。毎年、国宝 源頼朝像、平重盛像、釈迦如来像、潅頂暦名ほか、主要な宝物を順次展示されています。
▲伝 源頼朝像 Wikipedia, パブリック・ドメイン, LINK
・和気公霊廟と鐘楼
和気公霊廟は、山中にある和気清麻呂のお墓の遙拝所です。かつては和気清麻呂を祀る神社(護王社)だったそうですが、明治時代に京都御所の隣に建立された「護王神社」に遷座されたため、遙拝所になりました。
左奥に見える 鐘楼は元和9年(1623年)の再建。貞観17年(875年)の銘をもつ梵鐘(国宝)は、序詞:橘広相、銘文:菅原是善、揮毫:藤原敏行の手によるもので、古来〈三絶の鐘〉と称される日本三名鐘の一つです。
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・明王堂
かつて神護寺に安置されていた弘法大師作の不動明王は、天慶3年(940年)に平将門の乱を鎮圧するため、寛朝僧正が関東に出開帳され、この不動明王をご本尊として成田山新勝寺が建立されました。
現在の明王堂のご本尊は、平安時代後期に神護寺におさめられたと考えられています。そして、明王堂の扁額は七代目市川團十郎の揮毫です。
不動明王 公開
初大護摩供 1月2日
施餓鬼護摩供 8月16日
2月~4月、9月~12月の第2日曜日 14:00より
※日時は都合により変更する場合があります
・五大堂と毘沙門堂
元和9年(1623年)の建築。五大堂は、金堂へと上る石段の下に建つ入母屋造の三間堂。
毘沙門堂は五大堂の南に建つ入母屋造の五間堂。金堂が建つ前はこの堂が金堂で本尊の薬師如来像もここに安置されていました。内部の厨子に平安時代の毘沙門天立像(重文)が安置されています。
・大師堂
大師堂は重要文化財で、毘沙門堂の西側に建つ入母屋造、杮(こけら)葺きの住宅風の仏堂です。
空海の住房であった「納涼房」を復興したもので近世初期の再建。内部の厨子に板彫弘法大師像(重文)を安置しています。
大師堂 特別拝観
11月初旬
・本堂
入母屋造、本瓦葺きの本格的な密教仏堂。昭和9年(1934年)に実業家山口玄洞の寄進で建てられたものです。
須弥壇中央の厨子に本尊薬師如来立像(国宝)を安置し、左右に日光・月光(がっこう)菩薩立像(重要文化財)と十二神将立像、左右端に四天王立像を安置しています。
・多宝塔
金堂からさらに石段を上った高みに建っています。金堂と同様、昭和9年(1934年)、実業家山口玄洞の寄進で建てられたもので、内部に国宝の五大虚空蔵菩薩像を安置しています。
多宝塔 特別拝観
・春季御開帳 5月13日~15日
・秋季御開帳 10月(第2月・祝)を含む三連休
・かわらけ投げ
「かわらけ」と呼ばれる素焼きの円盤(釉薬を使わない土器製の盃)を、地蔵院前の広場から清滝川の谷(錦雲渓)に投げて厄除けとします。
かわらけ投げは、神護寺が発祥とされます。
通常拝観できるのは金堂だけですが、自然豊かな境内をゆっくり散策してリフレッシュできます。紅葉の時期はちょっと混むかもしれません。
【4】御朱印
本堂内にある御朱印窓口で拝受できます。
お守りなども販売されています。
若いお坊さん?が書いてくださいました。カッコイイですね!達筆!
【5】おすすめ「三尾めぐり」
三尾(さんび)とは、京都の西に位置する、高雄(たかお)・槇尾(まきのお)・栂尾(とがのお)の総称で、古来より紅葉の名所として知られる地域です。
・三尾めぐりとは?
三尾にある寺院を巡ります。
木々の中を流れる清滝川に沿って歩く清々しいハイキングコースです。
- 高雄:神護寺
- 槇尾:西明寺
- 栂尾:高山寺(世界文化遺産)
参考サイト
高雄保勝会 公式サイト
KYOTO SANBI 京都三尾
・三尾めぐり所要時間
京都駅からスタートすると「三尾めぐり」の合計所要時間は、約5~6時間。(食事・休憩時間は含みません。)バスの本数が少ないので、スケジュールは余裕をもって組むのがポイントです。
高雄にはホテルもあるので、泊まりでゆっくりするのもいいかもしれませんね。
所要時間の目安
※拝観時間・休憩時間、バスの待ち時間は含みません。
- [京都駅JRバス停]→ 約51分→ [栂ノ尾バス停]
- [栂ノ尾バス停]→ 徒歩5分→ 高山寺 山門
- 高山寺 山門→ 徒歩約10分→ 西明寺 山門
- 西明寺 山門→ 徒歩約25分→ 神護寺 山門
- 神護寺 山門→ 徒歩約20分→ [山城高雄バス停]
- [山城高雄バス停] → 約51分→ [京都駅]
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三尾のお寺ご紹介
高山寺 | 鳥獣戯画で有名な寺院。石水院の善財童子像が印象的
西明寺 | 御朱印と四季折々の自然を楽しめる槇尾の古刹
「三尾めぐり」のハイキングは、丸1日予定するのがいいと思います。
【6】神護寺 アクセス
アクセス方法はバスになります。付近に電車は通っていません。
・最寄りバス停は「山城高雄」「高雄」
JRバス「山城高雄」、市バス「高雄」が最寄りバス停で、神護寺までは徒歩約20分です。
・京都駅前バスターミナルから
★京都駅前バスターミナルのりば案内
[JR3のりば] JRバス 高雄京北線 山城高雄・周山方面行 ※山城高雄まで約49分
・四条烏丸《地下鉄四条駅》から
地下鉄四条駅からは、26番出口を出て西です。
[Eのりば] 市バス8 高雄行き。
※高雄まで約51分。
紅葉シーズンはバスの本数が少し増えます。
※この記事の史実に関する記載は、神護寺公式サイト、神護寺パンフレット、駒札、京都風光サイト、Wikipedia等、を参考に作成しました。
神護寺(正式名:高雄山 神護国祚真言寺)
所在地 京都市右京区梅ケ畑高雄町5
TEL.075-861-1769(受付9:00~16:00)
神護寺 公式サイト