八坂神社は「祇園さん」の愛称で親しまれる厄除けの神様。四神相応の地、平安京の東(青龍)を守護する神社です。
京都最強の厄除けパワースポットと言っても過言ではありません。
八坂神社の厄除けのお祭「祇園祭」が現在に至るまで1,000年以上続いているのも霊験あらたかな神社の証明ですね!
八坂神社の御利益の由緒、見どころ、アクセス方法をご紹介します。
タップできる|目次|
【1】八坂神社 由緒と歴史
八坂神社は、いにしえより厄除けのご利益で朝廷・民間から尊崇されてきました。
創祀は飛鳥時代 [593年-694年] 頃。斉明天皇2年(656年)、高麗の使節・伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山に座した牛頭天王(スサノオノミコト)を八坂の地に奉斎したことに始まると伝わります。※諸説あり
御神徳が一気に高まったのは、災厄が多発した平安時代。
災厄の元凶とされる怨霊を鎮魂するため、貞観11年(869年)、祇園社(八坂神社)から神泉苑に神輿3基を送って執り行った御霊会が大成功をおさめたのです。
さらに元慶元年(877年)の疫病流行の際、祇園社に祈りが捧げられ流行が止んだことをきっかけに大きく発展すことになりました。
・疫病 厄除け千年の歴史
祇園御霊会(祇園祭)の始まり
平安時代、疫病がたびたび猛威を振るい人々を苦しめます。原因は怨霊の祟りであると信じられ、恐れられていました。
怨霊の鎮魂のために御霊神社も建立されましたが祟りは治まりません。貞観5年(863年)には、朝廷が怨霊を慰める御霊会を神泉苑(禁苑:天皇のための庭園)で執り行いますが、さらに地震などの天変地異も発生します。
不安な社会情勢が続く貞観11年(869年)、祇園社から神輿3基を神泉苑に送り御霊会を執り行なったところ怨霊の祟りを治めることに大成功!
祇園社は朝廷・民間から尊崇され、後に疫病退散の「祇園御霊会」が定期開催されるようになりました。これが祇園祭の起源と言われています。
関連記事です!
・龍穴、御神水の霊験
八坂神社は、陰陽道による四神相応の風水の東方・青龍の位置に鎮座し、王城鎮護の神としても尊崇されました。
本殿の下には青龍の穴(龍穴:りゅうけつ)があり、青々とした水を湛え、都の中心・堀川御池辺りの神泉苑まで繋がっていたと伝わります。かつては厄除けのご利益があるというこの水を頂く事が出来たそうです。
にわかには信じがたいですが、調査によると確かに京都の地下には琵琶湖の水量に匹敵する地下水脈があるんですって!
現在、御神水は大神宮社・美御前社の前に湧き出ています。
※龍穴:現在は漆喰で覆われて見ることはできません。
※四神:都の東西南北を守る神獣の事。東は青龍(八坂神社)、西は白虎(松尾大社)、南は朱雀(城南宮)、北は玄武(上賀茂神社)です。
京都は良質な地下水に恵まれていたから、茶道、京友禅、京豆腐・湯葉、酒造りなどの伝統産業が育まれたそうです。なるほど!
【2】御利益|本殿
厄除けの神様として、1,000年以上も崇敬される由緒ある神社です。
開運成就するためには、まずは厄除けから!
・厄除け、開運成就
スサノオノミコトと、その家族が主祭神。平安時代より疫病除け・厄除けの神様として崇敬されてきました。
厄年の方を始め、家内安全・病気平癒・試験合格・良縁成就・商売繁昌・除災安全など一切の厄災を祓うご利益があるとされます。
- 主祭神
中御座:素戔嗚尊(スサノオノミコト)
東御座:櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト)妻
西御座:八柱御子神(ヤハシラノミコガミ)8人の子供
祇園造の本殿(国宝)
本殿は400坪の大きさがあり檜皮葺の大屋根で覆われています。別棟だった本殿と礼堂(現在の拝殿)を一つの屋根で覆ったもので、この建築様式は京都の八坂神社だけに見られるため祇園造(ぎおんづくり)と呼ばれます。
かつての八坂神社は祇園社・感神院と呼ばれる神仏習合の社寺でした。平安時代初期、藤原基経がこの地に観慶寺感神院を建てたのが始まりといわれます。
祇園造は承平5年(935年)から寛和2年(986年)の間に成立したと推定され、現在の本殿は、承応3年(1654年)徳川家綱による再建です。
本殿はめちゃ大きいです! 気になる内部は特別公開の時に見ることができるそうです。
【3】御利益|摂社
本殿の周りには、様々な神様が摂社にお祀りされています。
中でも「疫神社」は、厄除けのキーワード「蘇民将来之子孫也」ゆかりの神社。八坂神社で厄除祈願する場合は外せない神社です。
西楼門から境内に入って、右方向へ進み本殿の周りを一周する順番に主な摂社とご利益をご紹介します。
・厄除け|疫神社
祇園祭の厄除けのキーワードは「蘇民将来之子孫也(蘇民将来の子孫なり)」。その蘇民将来をお祀りする末社です。
祇園祭の最後の行事は「疫神社夏越祭」。 疫神社鳥居に大茅輪を設け、参拝者はこれをくぐって厄気を祓い「蘇民将来之子孫也」の護符を授かります。
- 祭神
蘇民将来命(ソミンショウライノミコト)
護符「蘇民将来之子孫也」の伝説
昔々、ご祭神(=スサノオノミコト)が旅の途中、一夜の宿を探していると、ある兄弟の家にたどり着きました。
裕福な弟、巨旦将来(コタンショウライ)には、あっさり断わられましたが、兄の蘇民将来(ソミンショウライ)は、貧しいながらも手厚くもてなしてくれました。
そんな蘇民の心遣いに感激したスサノオノミコトは、「お礼に、お前の子孫を末代まで私が守ってあげよう。目印に、腰に“茅の輪”をつけておきなさい」と言い残して、去って行きました。
その言葉を守った蘇民将来の子孫たちは末代まで繁栄し、巨旦将来は没落したということです。
※茅の輪の目印は護符となり現在に受け継がれています。
・芸能の神|太田社
猿田彦神は天孫降臨に際して日神の使として先導の役割を果たした導きの神。天鈿女命は天照大神の天岩戸隠れに際し神楽を舞い、天孫降臨の際は猿田彦神とともに導いた神。宮廷神楽を奉仕した氏族 猿女君(さるめのきみ)の祖先であり、芸能の神とされています。
- 祭神
猿田彦神(サルタヒコノカミ)
天鈿女命(アマノウズメノミコト)
・福の神|祇園えべっさん
北向蛭子社は、祇園のえべっさん・福の神として崇敬されています。商売繁盛のご利益が有名です。
記録によると中古以来「西楼門内、北向きに立つ」とあり、古くから現在地にありました。社殿は正保3年(1646年)建造。重要文化財
- 祭神
事代主神(コトシロヌシノカミ)
・縁結びの神|大国主社
大国主命は出雲の神様。因幡(いなば)の白兎の話が有名です。
中世になると大黒天と同一視され、福の神・縁結びの神 「大黒さん」 としても信仰されるようになりました。
少彦名命は、大国主命とともに中つ国(地上世界)の国造りを行った神様。事代主命は大国主命の御子です。
因幡の白兎
出典:デジタル大辞林
出雲神話に出てくる兎。淤岐島(おきのしま)から因幡国へ行くため、鰐鮫(わにざめ)を欺いてその背を渡ったが、最後の鰐鮫に丸裸にされ、さらに八十神(やそかみ)の教えをそのまま信じて潮を浴び、痛くて泣いていたところを、大国主命(おおくにぬしのみこと)に救われる。
- 祭神
大国主命(オオクニヌシノミコト)
事代主命(コトシロヌシノミコト)
少彦名命(スクナビコナノミコト)
・伊勢神宮の分霊|大神宮社
伊勢まで行かなくても、内宮・外宮にお参りできます!
天照大神(内宮)は、最高神であり日本皇室の祖先神でもあります。 あらゆる福徳、招福のご利益があるとされます。
豊受大神(外宮)は、食物・穀物を司る女神で、衣食住をはじめとした産業の守護神とされています。
- 祭神
天照大神(アマテラスオオミカミ)
豊受大神(トヨウケノオオカミ)
・諸願成就|悪王子社
悪王子社(あくおうじしゃ)には、諸願成就の霊験あらたかな御祭神、スサノオノミコトの荒魂(あらみたま)が祀られています。
御祭神が若い頃、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した事により、敬称として「悪王子」の称号が贈られました。悪王子の「悪」とは『強力』の意味です。
八坂神社本殿のスサノオノミコトは和魂(にぎみたま)とされ、祇園祭では和魂と荒魂が一体化することにより、初めて「神秘の極み」になるといわれました。
平安時代、悪王子社は山鉾巡行の無事を祈願する神様とされていたため、神社のあった東洞院四条の辻から山鉾巡行の列が出発していたそうです。
その後、東洞院四条下ル悪王子町から、天正年中(1573~92年)烏丸通万寿寺下ル悪王子町に還り、慶長元年(1596年)四条新京極に、さらに明治10年(1877年)本社境内に移築されました。
- 祭神
スサノオノミコトの荒魂
荒魂・和魂(あらみたま・にぎみたま)
出典:日本大百科全書 より抄録
古代日本人は、神霊は、異なった霊能をもつ別個の霊魂から複合的に構成されていると考え、これを2大別して荒魂・和魂とよんだ。
荒魂は外面に表れた荒々しくたけだけしい面の作用をいい、これに対して和魂は柔和、仁慈の徳を備えている面をいう。
普段は一つの神格のなかで統合されているが、ときには両者が分離し、単独に一神格として行動することもある。
・美の神|美御前社
美御前社(うつくしごぜんしゃ)は美を象徴とする神様。古くから祇園の芸妓さん舞妓さんをはじめ、美しくなりたい一般女性はもとより、美容理容・化粧品業者の崇敬を集めています。
御祭神はスサノオノミコトの剣から生まれた宗像三女神(むなかたさんじょしん)と呼ばれる三柱の女神。中でも市杵島比売神は、七福神の一神である弁財天と同じ神として崇められ、美貌の女神吉祥天とも習合していた歴史があるため、財福、芸能、美貌の神として信仰されています。
- 祭神
市杵島比売神(イチキシマヒメ)
多岐理比売神(タギリヒメ)
多岐津比売神(タギツヒメ)
神水「美容水」
社殿前に湧き出る神水は「美容水」と呼ばれ、2,3滴肌につけると、肌の健康はもとより、心から美しく磨かれるという噂です。
・方除けの神|日吉社
鬼門(北東)を護る方除け・厄除けの神。八坂神社の本殿の北東に鎮座します。
- 祭神
大山咋神(オオヤマクイノカミ)
大物主神(オオモノヌシノカミ)
・刃物の神様|刃物社
「苦難を断ち切り、未来を切り開く。」鍛冶・刃物の神様。
古事記では、隠れた天照大神を誘い出す祭に使う刀剣類や斧、大きな鈴を作り、地上に降りた後は鍛冶の祖神となり鍛冶の技術をもたらしたと伝わります。
- 祭神
天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)
・舞踏の神|厳島社
厳島社(いつくしましゃ) には、市杵島比売神はスサノオノミコトが持つ剣から産まれた三女神の内の一神が祀られています。
容姿端麗で舞を踊る舞踏謡曲の神として、祇園の舞妓芸妓の皆さんに崇敬されています。
- 祭神
市杵島比売神(イチキシマヒメ)
本殿のパワーに圧倒されて摂社は通り過ぎてしまいそうですが、由来を知ると興味深いです。
【4】石鳥居、楼門、舞殿
四条通から見える八坂神社のシンボル西楼門、本殿正面の石鳥居は重要文化財。
本殿前には、花街の置屋や料亭から奉納された提灯が特徴的な舞殿があります。
・西楼門
四条通りを東に行くと、突き当たりに祇園の象徴として親しまれている石段と朱塗りの切妻造の楼門(2階建て門)が目に入ります。
楼門の左右には木像の随身(ずいしん:平安時代の貴族の護衛役)2体が置かれています。
応仁の乱で焼失後、明応6年(1497年)桧皮葺で再建、永禄年間に瓦葺きとなり、大正2年の四条通拡張に伴い移動、翼廊を建て現在の姿となりました。(重要文化財)
※八坂神社の正門は「南楼門」です。
・舞殿
本殿の前にある提灯が印象的な建築物は舞殿(ぶでん)です。
奉納行事や結婚式が行われる舞台で、祇園情緒あふれる提灯は花街の置屋や料亭から奉納されたものです。夜になると、提灯に明かりが灯されます。
・南楼門
八坂神社の表門。本殿の正面に位置しています。現在の楼門は慶応2年の焼失後、明治12年に再建されたものです。
・石鳥居
本殿の正面入口の鳥居。正保3年(1646年)に建立、寛文2年(1662年)の地震で倒壊、寛文 6年(1666年)に補修再建されたもので、重要文化財です。
日本三大石鳥居の一つとされています。
拝殿じゃなくて「舞殿(ぶでん)」があるのが、花街・祇園らしいですね^^
【5】八坂神社へのアクセス
四条通りの東端に鎮座されています。西楼門が目印です。
[地図]
A地点:阪急京都線「京都河原町駅」
B地点:京阪本線「祇園四条駅」
C地点:八坂神社 北楼門
・最寄り駅から
- バス停「祇園」下車すぐ
- 京阪電車「祇園四条駅」6、7出口から東へ徒歩約5分
- 阪急電車「京都河原町駅」1A、1B出口から東へ徒歩約8分
・京都駅から
- 市バス
★京都駅前バスターミナルのりば案内
[D1のりば]
市バス 100 清水寺・祇園・銀閣寺行き
市営急行 110 祇園・平安神宮行き
[D2のりば]
市バス 206 祇園・北大路バスターミナル行き
※祇園まで約18分 - TAXI 所要時間 約11分
総距離 約3.3km タクシー料金検索
※料金・所要時間は実際とは異なる可能性があります。
関連記事です!
近くの名所旧跡ご紹介
建仁寺 | アクセスと見どころ。双龍図、風神雷神図、庭園etc
高台寺 | 秀吉・ねね の寺を散策。圓徳院共通拝観券がお得
八坂神社の近くには名所旧跡、風情ある街並みがあり、京都の風情を楽しめます。ショッピングやグルメもよりどりみどり。青龍の地は栄えるっていうのは本当のようです^^
※この記事は、八坂神社公式サイト、駒札、京都通百科辞典サイト、梅原猛「京都発見」、 Wikipedia、コトバンク等を参考に作成しました。
八坂神社
所在地 京都市東山区祇園町北側625
授与所 9:00~17:00 (手書き御朱印は16:00まで)
TEL.075-561-6155
八坂神社公式 サイト