新日吉神宮(いまひえじんぐう)は、後白河天皇が院の御所「法住寺殿(ほうじゅうじどの)」の鎮守社として比叡山の守護神・日吉社を勧請した神社です。
鬼門除け・災難除けなど、さまざまな御利益で信仰されています。また「日吉の神」の使徒のお猿さん「真猿(まさる)」も魔除けの御利益で有名です。
由緒と御利益、可愛い置物おみくじ、見どころ・アクセスをご紹介します。
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【1】新日吉神宮とは
新日吉神宮は永暦元年(1160年)、後白河上皇が院の御所・法住寺殿の守護神として、日吉社より山王七社(上七社)を勧請したのが始まりです。
日吉社(ひえしゃ)は、崇神天皇7年に創祀された比叡山の神をお祀りする古社。延暦7年(788年)には最澄が比叡山延暦寺を建立し、日吉社を守護神として崇敬しました。
さらに、延暦13年(794年)の平安京遷都により、日吉社は京の鬼門に当たることから、鬼門除け・災難除けの社として国からも崇敬されるようになりました。
第77代 後白河天皇[1127~1192]
出典:百科事典マイペディア
平安末期の天皇。鳥羽天皇第四皇子。1155年即位,保元(ほうげん)の乱では勝利し,1158年譲位,その後5天皇の代にわたって院政を行った。
その間,平治(へいじ)の乱から鎌倉幕府の成立という激しい情勢の変化に対処し,源頼朝をして〈日本国第一之大天狗〉といわせたほど巧みな政略で朝廷権威の存続を図った。
また仏教を保護し,今様(いまよう)を好み歌謡集《梁塵秘抄(りょうじんひしょう)》を撰した。
・名前の由来
由緒ある日吉社を勧請して、新しい日吉社を創建したことを表現しています。
- 新=いま。「今」の意味。
- 日吉=ひえ。「日枝」「日吉」「比叡」と同じ。
とはいえ、平安時代の「新」なので、創祀から860年以上経過しています^^
・後白河天皇の院御所「法住寺殿」の鎮守社
- 保元3年(1158年)後白河天皇は譲位して上皇となり、かつて藤原為光が建立した法住寺を中心とした地域に院御所の建造をはじめました。これが法住寺殿です。
- 永暦元年(1160年)法住寺殿の域内に、延暦寺の鎮守社・日吉社を勧請して「新日吉社」、上皇が篤く信仰している熊野三山から熊野権現を勧請して「新熊野社」を建立。
- 永暦2年(1161年)上皇は法住寺殿に居を移して院政を行い、長寛元年(1163年)には平清盛の寄進で蓮華王院(三十三間堂)が造立されるなど、栄華を極めました。
後白河法皇は日吉社に108回も参詣したといいます。
・新日吉神宮の歩み
智積院南側に創建され繁栄した後、応仁・文明の乱で衰退。その後、智積院の北に社地を移して再興されました。
- 平安時代後期、永暦元年(1160年)後白河上皇が院の御所・法住寺殿の守護神として、比叡山の守護神である日吉社より山王七社(上七社)を勧請。平清盛の寄進により壮麗を極めた社殿が建立され、内陣に7つの神座が祀られました。別当は比叡山延暦寺の妙法院。
新日吉小五月会(こさきのまつり)も盛大におこなわれたといいます。 - 鎌倉時代、第82代・後鳥羽上皇、第88代・後嵯峨上皇、第89代・後深草天皇も参詣。
- 室町時代、応仁・文明の乱(1467~1477年)で焼失し衰微。
- 江戸時代、寛永年間(1624~1644年)後水尾天皇の勅命で妙法院宮堯然(ぎょうねん)法親王が、智積院の北、豊国廟の参道だった位置に社地を移し社殿を再建し繁栄。
- 明治元年(1869年)新政府の神仏分離政策により、妙法院より独立し新日吉神社となりました。そして明治30/31年(1897年/1898年)豊国廟の再建にともない現在地へ再移転。
- 昭和33年(1958年)後白河法皇の神霊が法住寺陵より遷され合祀。翌年、社名が新日吉神社より新日吉神宮に改名されました。
豊国神社・豊国廟との関係
桃山時代、豊臣秀吉を祀る豊国社と豊国廟が日吉社の北社地に造営され繁栄しましたが、豊臣家が滅亡すると徳川家康によって廃絶・破却されました。その際、ご神体は新日吉社神殿に密かに遷されたといいます。
そして明治時代に豊国神社の再興が決まった際は、新日吉神社の神楽殿が仮拝殿とされました。(明治13年に旧方広寺大仏殿境内に造営された現社殿に遷座)
新日吉神宮の境内は、緑豊かで清々しい雰囲気です。
【2】新日吉神宮 御祭神と御利益
新日吉神宮の御祭神は、山の神(比叡山・白山)、縁結びの神(出雲の神)、海の神(宗像神社)が一つに集まり「日吉の神」と称されます。
そのため、酒造・医薬・縁結びの神、厄除開運・家内安全・商売繁盛・交通安全・安産など、さまざまな御利益で信仰されています。
さらには、日吉の神の使徒「真猿(まさる)」も魔除けの象徴とされています。
・本殿|山王七社、後白河天皇
- 大山咋命(オオヤマクイノミコト)和魂&荒魂
御利益:厄除開運・五穀豊穣・醸造・医薬・家内安全
比叡山の神で、山背国(京滋地区)の守護神として崇められています。 - 賀茂玉依姫命(カモタマヨリヒメノミコト)和魂&荒魂
御利益:安産
大山咋命の妻神。 - 大己貴命(オオナムチノミコト)
御利益:五穀豊穣・家内安全・縁結び・商売繁盛
別名は大国主神、大黒天です。
- 田心比売命(タゴリヒメノミコト)
御利益:交通安全・商売繁盛
宗像3神の1神、海の神。 - 菊理比売命(ククリヒメノミコト)
御利益:五穀豊穣・家内安全・縁結び・安産育児・厄除け・開運招福
いざなぎ神・いざなみ神の言争いの仲介役とされます。 - 後白河天皇の御霊
昭和33年(1958年)に合祀されました。
・相殿|素戔嗚尊、大年神
- 素戔嗚尊(スサノオノミコト)、大年神(オオトシノカミ)
御利益:厄除け、五穀豊穣
大山咋命の祖父神、父神。
・神徒|真猿(まさる)
悪気を祓い災厄をしりぞけ、幸福を授けてくださる大変縁起のよいお猿さんです。
- 真猿(まさる)=「魔去る」「勝る」に通じる。
- 猿(えん)=円=縁につながるとされます。
古来より日吉といえば猿が神様のお使いとされ、いつの頃からか魔除けの象徴として大切に扱われるようになりました。
境内では、狛猿・本殿前・本殿の欄間、授与品にお猿さんを見ることができます。
昭和10年(1935年)に安置された神猿像。現在、金網で囲まれているのは、夜に猿が動き出すのを封じるためといわれます。
本殿の欄間にある真猿の彫刻を見るために、本殿横に双眼鏡が備え付けてあります。
厄除開運の御利益がある「まさる」さんに親しみを感じます^^
【3】境内社
後白河天皇ゆかりの「飛梅天満宮」と、豊臣秀吉ゆかりの「樹下社(このもとのやしろ)」が有名です。
・飛梅天満宮
永暦元年(1160年)後白河天皇により祀られました。
御祭神は、菅原道真と道真遺愛の飛梅之霊。飛梅之霊とは、道真が大宰府に左遷される時、別れを惜しんだ旧宅の梅の霊です。
菅原道真の短歌 [拾遺和歌集]
東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな
訳:春になり東風が吹いたら、(大宰府の)私のもとに匂いを届けておくれ。主人がいないからと言って、春を忘れてはならないよ。
・樹下社(豊国神社)
江戸時代の慶長20年(1615年)徳川幕府によって豊臣秀吉を祀る豊国社が廃絶・破却された際、ご神体は新日吉社神殿に密かに遷されたといいます。
そして天明5年(1785年)境内社「樹下社(このもとのやしろ)」を造営。「樹下」の神(玉依姫神)の神名に、豊臣秀吉の元の姓「木下」を重ねてカムフラージュし、徳川幕府の監視の目をくぐってきたと伝えられます。
豊国社が再興され豊国神社になったのは明治時代です。
菅原道真と一緒に梅の花の霊をお祀りするなんて、後白河天皇はロマンチストだったんですね。
【4】御朱印・可愛い置物おみくじ
授与品も真猿さんに注目。お守りや縁起物の置物もありました。
・御朱印
参拝した日は、書置きの御朱印でした。真猿のスタンプが可愛いです。
・可愛い置物おみくじ
おみくじ付き、張り子の可愛いお猿さん。
定番の御朱印の初穂料300円。真猿のおみくじは200円でした^^
【5】新日吉神宮 アクセス
後白河天皇ゆかりの三十三間堂、法住寺も近いので一緒に参拝するのもおすすめ。
豊国神社、豊国廟、智積院なども徒歩圏内です。
・最寄駅から
- バス停「東山七条」から徒歩約5分。
- 京阪本線「七条駅」から徒歩約11分。
A地点:新日吉神宮
B地点:市バス「東山七条」
C地点:京阪本線「七条駅」
・京都駅から
- 市バス 京都駅前バスターミナルのりば案内
[D1のりば] 洛バス100 「東山七条」まで約11分。
[D2のりば] 市バス206、208 「東山七条」まで約11分。 - TAXI 所要時間 約7分
総距離 約2.1km タクシー料金検索
※料金・所要時間は実際とは異なる可能性があります。
・祇園四条から
- 京阪本線
淀屋橋行きに乗車「七条駅」まで約3分。
※特急も停車します。 - 市バス
[四条京阪前 Aのりば] 市バス207「東山七条」まで約13分。
近くには、三十三間堂、智積院などの有名寺院があります。
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付近の名所旧跡です。
豊国廟 | 豊臣秀吉のお墓。489段の石段と登拝御朱印のご紹介
智積院 | 長谷川等伯の障壁画・庭園、見どころとアクセス
※この記事の史実に関する記載は、新日吉神宮公式サイト・パンフレット・駒札、Wikipedia等を参考に作成しました。
新日吉神宮(いまひえじんぐう)
所在地 京都市東山区妙法院前側町451-1
TEL.075-561-3769
境内無料
新日吉神宮 公式サイト