大徳寺 龍源院(りょうげんいん)は、大徳寺の中で最も古い塔頭寺院です。
室町時代の禅宗方丈建築(重要文化財)の本堂を中心に、それぞれ異なった趣の禅宗庭園が取り囲んでいます。特に方丈南庭「一枝坦」の亀島、方丈北庭「龍吟庭」は豊かな苔が効果的に使われている事から、洛北の苔寺とも呼ばれています。
しばしの間、禅庭を眺めながら自分自身を見つめなおすのもいいですね^^
それぞれのお庭の作庭意図、見どころや御朱印をご紹介します。
龍源院は常時拝観可能です。
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【1】龍源院の歴史
応仁の乱 [1467~1477年] が終わり、京都の町が落ち着きを取り戻した文亀2年(1502年)頃。
龍源院は、大徳寺 南派の祖・東渓宗牧(とうけい そうぼく)を開山として、能登(石川県)の領主・畠山義元、九州の都総督・大友義長(大友宗麟の祖父)、周防の大内義興らの戦国大名が創建しました。
・寺名の由来
龍源院という名は、大徳寺の山号である龍宝山(りゅうほうざん)の「龍」と、中国・臨済宗松源派の祖・松源崇嶽(しょうげんすうがく)の禅を継承する松源一脈の「源」の2文字を採ってつけられました。
・龍源派(南派)の本庵
龍源院は大徳寺の四派の一つ、龍源派(南派)の本庵でもあります。
南派とは、一休宗純の法兄で大徳寺の興隆に尽力した、大徳寺第26世・養叟宗頣(ようそうそうい)の門下から輩出された二人の逸材、東渓宗牧(とうけい そうぼく)と古嶽宗亘(こがく そうこう)を、南派・北派としたことによります。
大徳寺では、四つの門派が互いに切磋琢磨しながら修行されてきたのです。
【大徳寺 四派】 | 【本庵】 | 【開祖】 |
・龍源派(南派) | 龍源院 | 東渓宗牧(とうけい そうぼく) |
・大仙派(北派) | 大仙院 | 古嶽宗亘(こがく そうこう) |
・真珠派 | 真珠庵 | 一休宗純(いっきゅう そうじゅん) |
・龍泉派 | 龍泉庵 | 陽峰宗韶(ようほう そうじょう) |
・龍源院の歴史
龍源院は由緒ある禅寺「大徳寺」の最も古い塔頭寺院です。
大徳寺の歩み
- 嘉暦元年(1326年)大燈国師が開創した小庵「大徳」は花園天皇(北朝)、後醍醐天皇(南朝)両天皇の帰依を受け勅願所となり、法堂完成と同時に龍宝山大徳寺と命名されました。
- 永享3年(1432年)大徳寺 第26世・養叟宗頤(ようそう そうい)は、世俗化しつつあった五山十刹から離脱、座禅修行に専心するという独自の道を選び、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄えます。
- 享徳2年(1453年)の火災と応仁の乱(1467-1477年)で当初の伽藍を焼失。その後、一休宗純が堺の豪商らの協力を得て復興しました。
龍源院の歩み
- 文亀2年(1502年)、東渓宗牧 禅師を開祖として、能登の畠山義元、豊後の大友義長、周防の大内義興らの戦国大名が龍源院を創建。
- 明治の初め頃、神仏分離令により大阪・住吉神社内の慈恩寺と、岐阜・高山城主だった金森長近が大徳寺内に建立した金竜院を合併。
東渓宗牧(とうけい そうぼく)[1455~ 1517年]
大徳寺の開祖・大燈国師より第8代の法孫。
大徳寺第26世・養叟宗頣(ようそうそうい)の門下。
永正2年(1505年)大徳寺 第72世住持となり、永正9年(1512年)には第104代・後柏原天皇より仏恵大円禅師の号を賜る。
大徳寺と塔頭寺院は、ほとんどが通常非公開なので、龍源院は数少ない常時公開の塔頭寺院です。
【2】龍源院の枯山水庭園
表門の看板に「室町時代 名勝庭園 枯山水及び石庭」とありますが、室町時代のお庭は方丈北庭「龍吟庭」だけです。
ちなみに、枯山水は「水」を抽象的に表現した庭園。その中でも、石や砂だけで表現したのが石庭になります。
・方丈南庭「一枝坦」
昭和時代の枯山水で、作庭は細合喝堂(ほそあい かつどう)。無常と永遠不変が表現されていると言います。
「一枝坦(いっしだん)」という名は、開祖・東渓宗牧が、その師、実伝和尚より賜った「霊山一枝之軒(りょうぜんいっしのけん)」に由来します。
かつては樹齢700年越えの中国産の山茶花 “楊貴妃” が茂り、11月中旬から4月頃まで深紅の花を咲かせることで有名でした。
しかし、昭和55年の春に樹齢がつきて枯れてしまったのです。そのため、当時の住職が七つの石で鶴亀蓬莱形式で作庭したのが現在のお庭です。
- 蓬莱山(仙人の住む不老長寿の吉祥の島)/中央右寄りの背の高い石組み
- 鶴島/右端の石組み
- 亀山/左手前の丸い苔山
- 大海原/白い砂
・方丈北庭「龍吟庭」
室町時代特有の三尊石組みからなる須弥山(しゅみせん)形式の枯山水庭園で、足利将軍家に同朋衆として仕えた、相阿弥(そうあみ)の作庭と伝わります。
須弥山とは、仏教の世界観の中心にそびえ立つ神々が住むという高山。麓には九山八海が交互に取り囲み、人間が住んでいるのは最も外側だそうです。
庭全体を覆う杉苔は大海原、石組みは陸地を表し、中央の須弥山石の前にある丸い板石は遥拝石(ようはいせき)で、理想に近づくための信仰心を表しています。禅の悟りとは、私たちが本来持っている絶対的人間性、本来の姿を自ら発見することだとか‥ 難しいですね^^
悟れなくても、もふもふの美しい苔を堪能できる禅庭です。
・石庭「東滴壺」
日本で一番小さい石庭と云われる「東滴壺(とうてきこ)」は昭和時代の枯山水。昭和33年、昭和の名作庭家として有名な重森三玲を中心に行われた全国一斉古庭園実測調査の製図を担当した鍋島岳生(なべしまがくしょう)による作庭です。
建物に囲まれた小さな空間でありながら、広がりを感じさせる無駄のない構成で、現代の壺庭空間を代表する作品と評されています。
丸い波紋は一滴の水が滴り落ちる様子を表現。一滴の水が小川となり大河となり、ついには大海となる様に(悟りにつながるように)、一滴の水の大切さを表現されています。
・石庭「滹沱底」
書院南にある石庭・滹沱底(こだてい)は、宗祖である臨済禅師が住した中国・河北省鎮州城にある寺院の南を流れる河の名から付けられました。
別名「阿吽(あうん)の石庭」とも呼ばれ、吸う息と吐く息、天と地、陰と陽など、切り離すことのできない宇宙の真理を表現しています。
阿吽の石と名付けられた、右と左の石は豊臣秀吉が建立した聚楽第の遺構だと伝わります。
滹沱底の写真を撮るのを忘れていました・・後日追加したいと思います^^
【3】その他の見どころ
方丈・唐門・表門は創建当時のもので、室町時代の禅宗方丈の典型的な形式を見ることが出来ます。そして、本尊・釈迦如来坐像は、龍源院の創建より古い鎌倉時代の建長2年(1250年)行心の作。いずれも重要文化財。
その他に、天正11年(1583年)の銘がある日本最古の種子島銃、豊臣秀吉と徳川家康が対局したと伝わる四方蒔絵碁盤。室町時代の等春の筆による方丈襖絵「列仙の図」、室中の間の襖絵「竜と波の図」(作者・年代不明)などの寺宝を見ることが出来ます。
火縄銃、四方蒔絵碁盤は書院に展示してあります。誰もいなくて部屋に入っていいのか迷ったのですが‥入っても良かったみたいです^^
【4】御朱印
御朱印は書置きのみで、庫裡で拝受することが出来ます。
開祖・東渓宗牧が後柏原天皇より「仏恵大円禅師」の号を賜ったことから、「大圓殿」と書かれています。
伺った時は、庫裏の受付に人懐こい猫ちゃんがいました。^^
【5】大徳寺 龍源院へのアクセス
最寄り駅は、バス停「大徳寺前」。
[地図]
B地点:龍源院
A地点:バス停「大徳寺前」
・京都駅から
- 地下鉄烏丸線 国際会館行に乗車「北大路駅」下車→ 市バスに乗換→「大徳寺前」下車 。所要時間:約25分。
- 京都駅前バスターミナルのりば案内
[A2のりば] 市バス205 北大路バスターミナル行「大徳寺前」まで約45分
[A3のりば] 市バス206 北大路バスターミナル行「大徳寺前」まで約40分
[B2のりば] 洛バス101 北大路バスターミナル行「大徳寺前」まで約42分 - TAXI 所要時間 約21分
・総距離 約6.7km タクシー料金検索
※料金・所要時間は実際とは異なる可能性があります。
・四条河原町から
- [Fのりば] 市バス205 洛北高校・北大路バスターミナル行「大徳寺前」まで約31分
・北大路バスターミナルから
- 洛バス101 京都駅前行「大徳寺前」まで約4分
- 洛バス102 錦林車庫前行「大徳寺前」まで約4分
- 市バス204 北大路通り・金閣寺・西ノ京円町行「大徳寺前」まで約5分
- 市バス205 西大路七条・京都駅行「大徳寺前」ま約5分
- 市バス206 千本通り・京都駅行「大徳寺前」まで約5分
- 市バス北8 佛教大学・松ヶ崎駅前行「大徳寺前」まで約5分
せっかく大徳寺に行ったなら、常時拝観可能な塔頭を拝観して、素敵なお庭を愛でましょう^^
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※この記事の史実に関する記載は、大徳寺パンフレット、龍源院パンフレット、駒札、Wikipedia等を参考に作成しました。
龍源院
所在地 京都市北区紫野大徳寺町82
TEL.075-491-7635
拝観時間 9:00~16:20
拝観料金 大人350円 高校生250円 小・中学生 200円
定休日 4月19日(法要等で拝観休止の場合有り)