妙顕寺 | 龍が躍る御朱印と庭園が見どころ。京都最初の日蓮宗寺院

妙顕寺 門

妙顕寺(みょうけんじ)は、日蓮の弟子・日像が京都での日蓮宗布教のために最初に建立した道場。南北朝時代には後醍醐天皇により日蓮宗唯一の勅願寺となりました。

また、伝統的な日本美術に新風を吹き込んだ「琳派」の画家 尾形光琳(おがたこうりん)の菩提寺でもあり、光琳筆の「寿老松竹梅三幅図」を所蔵されています。※通常非公開

この記事では日蓮宗の歩みを超簡単にまとめるとともに、龍が躍っているような御朱印(御題目)、4つの庭園や本堂など妙顕寺の見どころをご紹介します。

基本情報

妙顕寺 [正式名称:具足山 四海唱導 妙顕寺]
所在地 京都市上京区妙顕寺前町514
TEL.075-414-0808
拝観時間 10:00~16:30(受付・御朱印 16:00まで)

妙顕寺 公式サイト

【1】日蓮宗とは

日蓮宗(にちれんしゅう)とは、鎌倉中期に日本人の僧・日蓮によって開かれた宗派です。

法華経(ほけきょう)に帰依することから「法華宗(ほっけしゅう)」と称していましたが、安土桃山時代末期に「天台法華宗(天台宗)」と区別するため「日蓮法華宗、日蓮宗」とよぶようになりました。

・南無妙法蓮華経

日蓮宗が一番大切にしている教えは、お釈迦様が晩年の8年間に説かれた「妙法蓮華経(法華経)」。

法華経の説く「万人がこの世で幸せに生きる」ために、日蓮宗では「南無妙法蓮華経」という言葉(題目)を繰り返し唱えるのが特長です。

南無妙法蓮華経(なむ みょうほうれんげきょう)
現代語に訳すと「妙法蓮華経に帰依します。」になります。
南無はサンスクリット語の「ナモ」が語源で、帰依する、信ずる、任せるという意味があります。

・宗祖 日蓮

  1. 承久4年(1222年)安房国(現在の千葉県鴨川市)で誕生。
    12歳の時、安房国の清澄寺(天台宗の法華経・浄土教・密教をあわせた有力な山岳寺院)入り修学に励み、16歳で得度・出家し「是聖房蓮長」と称しました。
  2. 十数年に及ぶ遊学の旅を開始。比叡山を拠点としながら、京都・奈良の諸大寺を訪れ、さらに高野山、四天王寺に足を伸ばして修学。当時の浄土教の隆盛を天台宗・法華経信仰の衰退ととらえ、法華経復興により現世の平安を獲得することを誓い清澄寺に戻りました。
  3. 建長5年(1253年)32歳の時に、南無妙法蓮華経の唱題のみを行う「専修題目」を主張し「法華経」の伝道を宣言、清澄寺を去ります。この頃、蓮長を「日蓮」に改めます。
  4. 正嘉1年(1257年)鎌倉に草庵を構えて伝道活動を開始。しかし8月に鎌倉に大地震、続いて洪水、干魃、疫病、飢饉などの天災が続出しました。
  5. 文応元年(1260年)「立正安国論(りっしょうあんこくろん)」を発表し、自然災害の原因は、人々が悪法に帰依しているためだと幕府の宗教政策・他宗派の批判を展開。そのため幕府により伊豆・佐渡に流され、たびたび他宗派の信者にも襲われました。(松葉ヶ谷の法難、小松原の法難、龍の口の法難、熱原法難など)
  6. 文永11年(1274年)甲斐(山梨県)の身延山(みのぶさん)に隠栖。
    主に著述と弟子の養成に当たり、日蓮の教えは東国で地頭以下の武士、名主百姓、女性に受容されました。
  7. 弘安5年(1282年)9月25日、門下に立正安国論の最後の説法を行い。10月8日、日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持の6人を本弟子(六老僧)と定め、13日に多くの門下に見守られて入滅。

日蓮 [1222-1282年]
鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。勅号は立正大師。安房国(千葉県)の人。12歳で清澄寺に入り、18歳で出家。比叡山ほか各地で修行、ついに法華経に究極を見いだした。建長5年(1253年)清澄寺で布教を開始、辻説法などを行なう。文応元年(1260年)「立正安国論」を著わし、幕府の忌諱にふれ伊豆へ流罪。三年後許されたが、ますます幕府や諸宗を攻撃し、鎌倉龍の口で斬られかけた。佐渡流罪後文永11年(1274年)身延に隠れ、久遠寺を開いた。のち、病気のため下山、武蔵国(東京)池上で没。著に「観心本尊抄」「開目抄」「報恩抄」など。

出典 精選版 日本国語大辞典より抄録
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妙顕寺を開いた日像は、日蓮の孫弟子です。日蓮→日朗→日像

【2】妙顕寺の由緒

日蓮の遺志を継いだ孫弟子 日像が、京都で最初に創建した日蓮宗の道場が始まりです。

妙顕寺 大本堂
▲本堂

・日蓮宗 唯一の勅願寺

建武元年(1334年)後醍醐天皇から法華宗号と勅願寺の論旨を受け、妙顕寺は法華宗最初の勅願寺として洛中洛外の宗門の第一位に認められました。

以後、南朝:後醍醐天皇の京都還幸を祈願する一方、北朝:光厳上皇の祈祷も行い、公武の信仰を集め繁栄。「龍華(りゅうげ)」「四海唱導(しかいしょうどう)」と称されました。

龍華:日像が龍華樹院と呼ばれたことに由来。
四海唱導:法華経の功徳により世界中の人々を救い導くいう意味。

・開山 日像

妙顕寺を建立した日像は、日蓮の6人の本弟子(六老僧)の1人である日朗の弟で、7歳のとき日朗に従って出家し、身延山に隠棲した日蓮のもとで修学。

そして弘安5年(1282年)日蓮入滅の際に、都である京都での布教を13歳という若さで託されました。

永仁2年(1294年)日蓮の遺志を継いで京都に向けて出発。

上洛後は日蓮宗の道場(後の妙顕寺)を創建、辻説法を行い順調に帰依者を獲得します。しかし諸大寺からの弾圧も強く、三度も京都から追放されました。

その間も粘り強く布教をつづけ、京都の新興商工業者や町衆に法華信仰を広め、妙顕寺は建武元年(1334年)に法華宗最初の勅願寺となりました。

京都日蓮宗の発展の礎を築いた日像は、康永1年(1342年)入寂。

龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)
日像が開山とされる、妙顕寺・立本寺・妙覚寺のことをいいます。
いずれも山号は具足山。三具足とは、香炉・燭台・花立の重要な仏具セットです。

日像 [1269-1342年]
鎌倉末・南北朝時代の日蓮宗の僧。京都妙顕寺の開創者。号は龍華院、通称は肥後阿闍梨。下総(千葉県)の豪族平賀忠晴の子。日朗の弟。日蓮、日朗に従い、永仁2年(1294年)に入洛後は、たびたび京都を追われながら大いに宗義を広めた。著書に「三秘蔵集」「宗旨弘通鈔」など。

出典:精選版 日本国語大辞典より抄録

・妙顕寺の歩み

  1. 元亨元年(1321年)日像が、京都で最初の日蓮宗の道場を大宮通今小路に創建。
  2. 建武元年(1334年)後醍醐天皇から布教公認の論旨を賜り、法華宗最初の勅願寺となりました。京都では法華信仰が盛り上がり隆盛を極めます。
  3. その後、旧仏教との対立などで寺地を転々とします。
    暦応4年(1341年)四条櫛笥、明徳4年(1393年)押小路堀川に移転。「妙本寺」と改称し16世紀初頭に寺号を「妙顕寺」に戻します。天文法華の乱で堺の妙法寺へ逃れ、天文11年(1542年)帰洛後「法華寺」と改称し二条西洞院に再興。のちに「妙顕寺」に戻します。
  4. 天正11年(1583年)豊臣秀吉の都市計画によって現在地に移転。
  5. 天明8年(1788年)洛中を襲った「天明の大火」によって、妙顕寺も焼失。その後、本堂は40年以上かけて焼失以前の姿に復元されました。

豊臣秀吉の都市計画 妙顕寺城とは?
本能寺の変の翌年、天正11年(1583年)豊臣秀吉は二条西洞院にあった妙顕寺を現在地に移転させ、跡地に二条新邸(妙顕寺城)を建設。上洛の際の宿舎・政治の拠点として利用しました。
天正14年(1586年)妙顕寺城の北側に聚楽第が完成した後は、京都所司代の邸宅として利用。廃城時期は不明です。

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長い年月をかけて日蓮の願いを実現した日像の功績から、妙顕寺は「所願成就」のご利益があるとされます。

【3】妙顕寺 見どころ

四つの庭園、大本堂が見どころ。
宝物殿は特別拝観の時のみ公開です。

・四海唱導の庭

客殿前の枯山水庭園。滝から流れ落ちた水が白砂で表した大海へと広がっていく様子を表しています。正面の勅使門の後ろ見えるのは本堂の屋根です。

妙顕寺 四海唱導の庭
▲四海唱導の庭
妙顕寺 四海唱導の庭
▲四海唱導の庭

・孟宗竹の坪庭

書院と玄関の間にある、苔と竹の緑が清々しい坪庭です。

妙顕寺 竹の坪庭
▲孟宗竹の坪庭

・光琳曲水の庭

かつて、妙顕寺には尾形光琳が設計した庭園があったと文献に残りますが、1788年の天明の大火で建築物も庭も焼失しました。

現在の書院の前に広がる庭は、宝物庫に残されている尾形光琳の描いた「寿老松竹梅図」の掛け軸からイメージして作られました。大きな赤松を中心に川の流れる様子を表現しています。

広いお庭なので、一枚の写真には納まりません^^

尾形光琳[1658~1716]
江戸中期の画家・工芸意匠家。京都の人。乾山の兄。初め狩野派を学び、のち光悦や宗達の作風の影響を受け、大胆で軽妙な画風により独自の造形美を展開、琳派を確立した。代表作に「燕子花図屏風」「紅白梅図屏風」など。蒔絵にもすぐれた作品を残した。

出典:小学館デジタル大辞泉より抄録

尾形光琳と妙顕寺の関係
江戸中期を代表する画家、尾形光琳の生家である尾形家は妙顕寺の檀家でした。妙顕寺宝物殿には光琳の作品が所蔵されています。

妙顕寺 光琳曲水の庭
▲光琳曲水の庭(左)
妙顕寺 光琳曲水の庭
▲光琳曲水の庭(右)

・五色椿と松の庭

僧侶が修行(水行)する井戸と修行石、そこを源流とする水の流れを表現した庭で、水琴窟もあります。写真は庭の手前の一部です。

妙顕寺 五色椿と松の庭
▲五色椿と松の庭

・大本堂

本堂は、1788年に洛中を襲った「天明の大火」によって焼失。その後、40年以上かけて焼失以前の姿に復元されました。

かつて本堂には、二匹の龍の天井画「二大龍王図」が描かれていましたが、1975年に老朽化で天井が崩壊。修復不可能と判断されたため、当時寄進した方々の家紋が配置されました。

妙顕寺 大本堂
▲本堂、四海唱導の扁額
妙顕寺 大本堂
▲本堂
妙顕寺 大本堂天井
▲本堂の天井
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尾形光琳の作品は通常の拝観では見ることができません。興味ある方は、特別拝観の期間を狙いましょう!

【5】御朱印(題目)

波ゆり題目を拝受しました。
「龍の躍るが如し」とも言われる曲線が特徴的なお題目です。カッコイイですね^^

波ゆり題目とは
日像上人は京都での布教が成就するように、鎌倉の由比ヶ浜の海水に浸かって100日間修行。最終日に海面にお題目を描くと、お題目が金色に光って浮き上がり、波に揺れるように漂ったと伝わります。

妙顕寺 御首題
▲題目
妙顕寺 御朱印帳
▲御朱印帳

金色の龍があしらわれた御朱印帳も購入しました。色は朱・紺・緑の3色です。題目専用の御朱印帳にしたいと思います^^

妙顕寺 庫裏
▲妙顕寺受付
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通常の御朱印は、妙顕寺の別称「龍華」になります。

【6】妙顕寺 アクセス

アクセスは、バス停が近いです。

最寄り駅

  • 京都市バス「出雲路俵町」 山門まで徒歩約3分。
  • 地下鉄烏丸線「鞍馬口駅」 山門まで徒歩約12分。
  • 地下鉄烏丸線「今出川駅」 山門まで徒歩約12分。

[地図]
B地点:妙顕寺

A地点:バス停「堀川寺之内」
C地点:地下鉄「鞍馬口駅」
D地点:地下鉄「今出川駅」

妙顕寺 山門
▲妙顕寺 山門

・京都駅から

  • 市バス 
    ★京都駅前バスターミナルのりば案内
    ・[B1のりば] 市バス9「堀川寺之内」まで約27分。
  • 地下鉄烏丸線 国際会館行に乗車「今出川駅」or「鞍馬口駅」下車。乗車時間:約9~11分。
  • TAXI 所要時間 約19分
    総距離 約6km タクシー料金検索
    ※料金・所要時間は実際とは異なる可能性があります。

・三条京阪から

  • 市バス
    ・[Dのりば] 市バス12 金閣寺・立命館大学行に乗車「堀川寺之内」下車。乗車時間:約38分。

関連記事です!

日像が開山したお寺は、龍華の三具足(妙顕寺・立本寺・妙覚寺)とよばれます。
・立本寺
・妙覚寺
☆彡 後日、記事を追加予定です

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地下鉄で移動して、妙顕寺の山門から参拝する場合は「今出川駅」が少し近いかも。

※この記事の史実に関する記載は、妙顕寺公式サイト、パンフレット、駒札、Wikipedia、コトバンク等を参考に作成しました。