養源院 | 血天井、俵屋宗達の絵に込められた意図とは?

俵屋宗達

養源院は、浅井三姉妹の長女で豊臣秀吉の側室 淀殿(茶々)が、父母の菩提を弔うために秀吉に願って創建した寺院。

後に火災で焼失し、淀殿の妹で徳川2代将軍 秀忠の正室 崇源院(江)の願いで徳川幕府によって再建され、織田・豊臣・徳川の血縁が合流する寺院となりました。

有名は血天井は、自刃した徳川方の家臣を祀るために、伏見城の床板を移築したもの。琳派の始祖・俵屋宗達が鎮魂のために描いた杉戸絵も間近に見ることが出来ます。

浅井三姉妹の歴史、見どころやアクセス方法をご紹介します。

基本情報
養源院
所在地 京都市東山区三十三間堂廻り656
TEL.075-561-3887
拝観時間 9:00~16:00
拝観料金 中学生以上 500円、小学生 300円
養源院 門

【1】浅井三姉妹の運命

養源院の歩みを理解するには、浅井三姉妹の茶々(ちゃちゃ)と江(ごう)がキーワードになります。ということで、簡単におさらいです。

・織田信長の姪の血筋

浅井三姉妹とは、北近江の戦国大名「浅井長政」と、戦国一の美女と賞された織田信長の妹「市」との間に生まれた3人の娘、茶々・初・江の事です。彼女らの波乱の人生は、数々の映画やドラマのモチーフになっています。

  1. 織田信長の妹・市は、永禄10年(1567年)頃、浅井長政に輿入れ。織田家と浅井家は同盟を結びました。そして、茶々が誕生。
  2. 元亀元年(1570年)初が誕生。この年に信長が浅井氏と関係の深い越前の朝倉義景を攻めたため、浅井家と織田家の友好関係は断絶。
  3. 天正元年(1573年)江が誕生。しかし、長政は信長に攻められ小谷城の戦いで敗北し自害。市と3人の娘「茶々」「初」「江」は共に救出され織田家に引き取られました。
  4. 天正10年(1582年)信長が本能寺の変で死亡し、市は織田家の重臣であった柴田勝家と再婚、三姉妹と共に北ノ庄城に入ります。
  5. 天正11年(1583年) 勝家は賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで羽柴秀吉に敗れ、北ノ庄城へ逃れるも落城。市や家臣と共に自害しました。

    三姉妹は秀吉に保護され(織田信雄との説もあり)、大きく運命が分かれていくことになります。
  • 茶々(淀殿)→ 豊臣秀吉の側室
    1567年生~1615年没
  • 初(常高院)→ 京極高次の正室
    1570年生~1633年没
  • 江(崇源院)→ 徳川秀忠の正室
    1573年生~1626年没

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▲淀殿(奈良県立美術館所蔵), パブリック・ドメイン, Link

Azai Ohatu.jpg▲常高院(常高寺所蔵、福井県立若狭歴史民俗博物館寄託), パブリック・ドメイン, Link

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▲崇源院(京都養源院所蔵), パブリック・ドメイン, Link

【2】養源院とは?

「養源院」は、浅井三姉妹の長女で豊臣秀吉の側室「淀殿(茶々)」が、父母の菩提を弔うために秀吉に願って創建した寺院です。寺名は、北近江の戦国大名だった父 浅井長政の法名からとられました。

後に焼失し、淀殿の妹・徳川秀忠の正室「 崇源院(江)」によって再建されたものが現在の養源院です。

天下を取りながらも滅亡した豊臣家と、260年続いた徳川家。交錯する歴史の一端を感じることができる寺院です。

養源院 駒札
▲養源院 駒札
養源院への道
▲養源院への道、大聖歓喜天の碑があります。
養源院
▲養源院入口。徳川家の三つ葉葵の紋が印象的

・養源院の歴史

  1. 文禄3年(1594年)淀殿が父 浅井長政の21回忌に秀吉に願い、長政の従弟で叡山の僧・成伯法印を開山に迎えて建立。
  2. 慶長20年(1615年)大坂の陣で豊臣家滅亡、淀殿と豊臣秀頼は自害。翌年、崇源院によって淀殿と豊臣秀頼の菩提が弔われました。
  3. 元和5年(1619年)火災により焼失。
  4. 元和7年(1621年)崇源院の願いにより徳川幕府が再建し現在に至ります。
  5. 寛永9年(1632年)崇源院と秀忠の五女で、後水尾天皇の中宮・東福門院が、崇源院の七回忌の年に秀忠が亡くなったので、両親の位牌を安置。以後徳川(歴代)の位牌所となります。
ミィコ
浅井三姉妹で一番有名なのは淀殿ですね。波乱万丈な人生はドラマに仕立てるのにピッタリ^^

【3】養源院の見どころ

随時お寺の担当者による説明と、録音再生を組み合わせた見どころ案内があります。堂内は写真撮影不可です。

・血天井は崇源院のアイデア?

「血天井」とは、伏見城の血糊が染み込んだ床板で作られた天井です。このアイデアは崇源院が養源院再建のために一計を案じたものと考えられるそうです。

血糊が染み込んだ床板とは、慶長5年(1600年)夏。関ヶ原の戦いの前哨戦となる伏見城の戦いで、徳川家康の忠臣 鳥居元忠以下の将士が城を死守し最後に自刃した際の床板です。

遺体が関ケ原の戦いが終わるまで1ヵ月以上放置されていたために、血糊が染み込み洗っても削っても取れなかったと伝わります。

関ケ原の戦い
慶長5年(1600年)関ヶ原で、石田三成らの西軍(豊臣方)と、徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝し、石田三成らは処刑され、豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

出典:デジタル大辞林

関ケ原の戦いに勝利し天下を取った徳川家康は、しばらく伏見城を拠点にしたあと、慶長11年 (1606年)駿府城に移動し元和2年(1616年)に死去。本格的に2代将軍 徳川秀忠と崇源院の時代になります。

元和5年(1619年)養源院が火災で焼失。同年、伏見城の廃城も決定し、翌年からの城割りで天守は二条城、他の施設もさまざまな場所に移築されていきました。

養源院の再建を願う崇源院は、徳川方に忠義を尽くした家臣の血糊が残る床板を、誰にも踏まれることがないように寺院の天井にして供養すれば、豊臣にまつわる寺院の再建の大義名分になると考えたようです。

その作戦通り、元和7年(1621年)養源院も伏見城の遺構を移築して再建されました。ちなみに血天井は、正伝寺・妙心寺天球院・源光庵・宝泉院・栄春寺にもあります。

ミィコ
血天井の濃淡は模様のようにも見えますが、頭の位置や腕の位置などの説明を聞くと、壮絶な状況がリアルに感じられます。

・俵屋宗達の杉戸絵・襖絵

俵屋宗達 白象図杉戸
▲俵屋宗達 白象図
国立国会図書館 芸術資料. 第三期 第十二册 

本堂廊下の東西の両端 杉戸絵は、自刃した徳川の家臣らの霊を慰めるために、俵屋宗達が仏様にちなんだモチーフを描いたものです。

普賢菩薩の乗り物である白象、文殊菩薩の乗り物である唐獅子、聖人が出現する前兆として現れるといわる霊獣のひとつ、麒麟(キリン)などがダイナミックな筆致とレイアウトで描かれています。現代にも通じるモダンで現代的な魅力に溢れています。

俵屋宗達
桃山から江戸初期にかけての絵師。養源院再建当時は「絵屋」とよばれた職業で、扇絵や色紙の下絵などで大胆なで斬新なデザイン性で名声を高めていました。
生没年は不詳で、親交のあった文化人・角倉素庵(1571-1632)や公卿・烏丸光廣(1579-1638)らと同世代と考えられています。

俵屋宗達が選ばれた理由は?
豊臣秀吉、徳川家康らが天下を取った時代、美術の世界では豪華絢爛な様式の桃山美術が開花。中でも狩野派は幕府御用絵師として揺るぎない地位を築いていました。

養源院も狩野派に障壁画(襖、杉戸、壁画など)を依頼しますが、狩野派は大名や寺院から多くの発注をかかえ、部分的完成のまま作業が進みませんでした。

危機感を持った養源院の開山 成伯は、崇源院を通じて浅井家ゆかりの尾形光琳の祖父や、文化人・本阿弥光悦を動かしたところ、絵師として評価の高まっていた俵屋宗達に白羽の矢が立ちました。

宗達らは狩野派とは異なる大胆な試みで障壁画を制作し高い評価を受け、この後は一流の絵師として次々に大作を描く事になります。

後に琳派の始祖と言われる宗達の才能が見出された記念碑的な仕事です。

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建仁寺 | アクセスと見どころ。双龍図、風神雷神図、庭園etc

・松の間、牡丹の間

伏見城の秀吉謁見の間を移したという松の間を飾る、俵屋宗達筆のダイナミックな襖絵「松図」は、 金箔地の上に雄大な松の木と岩を描いたもので、大胆なレイアウトが秀逸です。

そして玄関の左手にある秀吉の学問所だったという牡丹の間の襖絵は、狩野山楽が描いたもので、牡丹の折枝を散らした図案的なデザインが印象的です。

狩野山楽
桃山時代~江戸時代初期の画家。
浅井氏の家臣の家系出身。浅井氏が信長に滅ぼされると小姓として豊臣秀吉に仕えたが、画才を認められ狩野永徳の門に入り狩野姓を許されます。
豊臣家滅亡後は一時身を隠しましたが、その後許され、京都にとどまり社寺の障壁画を描いて京狩野家の祖となりました。

・鴬張りの廊下

養源院の廊下は、江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人、左 甚五郎の作品で、歩くとキュツキュツと音がして、 外部侵入者の危険探知の為に設けられた言われています。

・通常非公開のお宝

非公開のお宝って気になります^^
受付で販売されている冊子「養源院と障壁画」には、公開・非公開の写真がたくさん載っているので、興味のある方にはお薦め。(500円)

・お市の方供養塔
・崇源院石塔墓
・淀殿、豊臣秀頼、崇源院肖像
・豊臣秀吉木像
・狩野派「竹に鶴亀図屏風・金地著色」
・小堀遠州作 養源院池庭

養源院 説明書など
▲左が小冊子(有料)、由緒書きの紙と絵葉書は拝観時にいただけます。

【4】御朱印

御朱印は書置きのみで、参拝日を追記してくださいます。雨寶殿(うほうでん)と書いてあります。

本堂「雨寶殿」に祀られているのは秘仏・大聖歓喜天で、かつて豊臣秀吉が伏見城内に祀っていたものだそうです。

養源院 御朱印
ミィコ
説明していただかないと、全く読めませんでした^^ 徳川家の菩提所で秀吉ゆかりの御朱印というのがいいですね!

【5】養源院へのアクセス

養源院の門は地図の[A]地点

・最寄りバス停は[B]地点「博物館三十三間堂前
・電車最寄り駅は[C]地点 京阪本線「七条駅」

・京都駅からバス

バス停「博物館三十三間堂前」まで約7分。下車後、養源院まで徒歩3分

★京都駅前バスターミナルのりば案内
[D1乗り場]
市バス100 清水寺祇園・銀閣寺行
市バス106 祇園行
市バス110 祇園・平安神宮行

[D2乗り場]
市バス206 三十三間堂・清水寺・祇園・百万遍行
市バス208 博物館・三十三間堂・泉涌寺・東福寺行

TAXI 所要時間 約8分/ 730円
総距離 約2.3km タクシー料金検索
※料金・所要時間は実際とは異なる可能性があります。

・祇園四条から

京阪本線 淀屋橋行き乗車「七条駅」下車。
※乗車時間 約3分。養源院まで徒歩約7分。
※特急も停車します。

ミィコ
養源院は、観光バスが出入りして賑やかな三十三間堂とは対照的な静かな寺院です。

【6】付近の見どころ

徒歩5分以内です!

・智積院

長谷川等伯の障壁画(国宝)と、利休好みと伝わる名勝庭園が見どころ。

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智積院 | 長谷川等伯の障壁画・庭園、見どころとアクセス

・京都国立博物館

千年の都京都ゆかりの文化財を中心とした展示です。
京都国立博物館

・三十三間堂

前後10列の階段状に整然と並ぶ等身大の1000体の観音立像が有名。
三十三間堂

ミィコ
三十三間堂から五条坂までは徒歩約12分。五条坂から清水寺までは約徒歩約13分。ギリギリ徒歩圏内かな^^

※この記事の史実に関する記載は、養源院冊子、養源院駒札、Wikipedia等を参考に作成しました。

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