法住寺 | 霊験あらたかな「身代わり不動尊」、後白河法皇の御所聖跡

法住寺

法住寺(ほうじゅうじ)は、後白河法皇の院御所「法住寺殿(ほうじゅうじどの)」の跡地にある天台宗の寺院。

ご本尊は、後白河法皇が念持仏として大切にしていたという「身代わり不動尊」。不動尊の霊験で法皇の命が助かったというエピソードから「身代わりさん」として親しまれています。毎月28日の不動縁日ではご住職の法話も聞けます。

参拝記念には御朱印がおすすめ。素敵な墨絵をあしらうなど趣向を凝らした期間限定御朱印は要チェックです!

法住寺の歴史や、身代わり不動尊の由緒、御朱印、アクセス方法をご紹介します。

基本情報

法住寺
所在地 京都市東山区三十三間堂廻り655
TEL.075-561-4137
境内無料
堂内拝観料 500円  9:00~16:30 ※案内冊子付き
法住寺 公式サイト

【1】法住寺とは

後白河法皇の死後、法皇の御陵を守ってきたお寺です。

第77代 後白河天皇[1127~1192]
平安末期の天皇。鳥羽天皇第四皇子。1155年即位,保元(ほうげん)の乱では勝利し,1158年譲位,その後5天皇の代にわたって院政を行った。

その間,平治(へいじ)の乱から鎌倉幕府の成立という激しい情勢の変化に対処し,源頼朝をして〈日本国第一之大天狗〉といわせたほど巧みな政略で朝廷権威の存続を図った。

また仏教を保護し,今様(いまよう)を好み歌謡集《梁塵秘抄(りょうじんひしょう)》を撰した。

出典:百科事典マイペディア
法住寺 門
▲法住寺表門
法住寺 境内
▲境内
法住寺 旧御陵正門
▲後白河天皇陵の旧正門

・名前「法住寺」の由来

平安時代中期、この地にあった「法住寺」が由来です。

  1. 永祚元年(989年)右大臣・藤原為光が、妻と娘・忯子(花山天皇女御)の菩提を弔うために「法住寺」を創建。当時は北:七条通り、南:八条通り、東:東山山麓、西:大和大路に及ぶ広大な地域を占めていたといいます。
    正暦3年(992年)為光が亡くなると、寺は子孫に引き継がれますが長元5年(1032年)に焼失。再建の記録はありません。
  2. 120年ほど後の保元3年(1158年)‥
    後白河上皇が法住寺があった場所を院の御所と定め建造を開始。その地名から「法住寺殿」と名付けらました。そして永暦2年(1161年)から30年にわたりここで院政を行いました。

・法住寺殿と法住寺の歩み

「法住寺殿」で院政を行った後白河上皇は、仏教に深く帰依していたことから院御所敷地内にも神社仏閣を建立しました。

法住寺殿(ほうじゅうじどの)
保元3年(1158年)8月、二条天皇に譲位して上皇となった後白河院が、約30年にわたり院政(上皇が天皇に代わって政権運営をする政治形態)を行った政庁が法住寺殿です。

上皇になると天皇の住む御所とは別に“院御所(いんのごしょ)”を造営するのが通例で、先例の白河・鳥羽の両帝に続き譲位直後に院御所の造営に着手、永暦2年(1161年)に居を移しました。

東山の麓から西は鴨川河岸まで、南北は八条坊門小路から六条大路に及ぶ広大な地域で、その地名から「法住寺殿」と名付けられました。

構内は政治的な施設「北殿(きたどの)」と、“常の御所”と呼ばれる住居や三十三間堂などの宗教的堂塔が集まる「南殿(みなみどの)」に分かれ、東山を背にして大建築が並んでいたと言います。

賑わいをみせた院御所も、寿永2年(1183年)11月、木曽義仲の夜襲にあい焼失。再建されましたが、建久3年(1192年)の後白河院の没後は荒廃しました。

院御所の鎮守社として、比叡山の鎮守社・日吉社を勧請して「新日吉社」、熊野三山から熊野権現を勧請して「新熊野社」を建立。さらに、巨大な仏堂、千体千手観音像を安置する「蓮華王院・三十三間堂」などが建立されました。

  1. 現在の法住寺は永暦2年(1161年)院御所南殿に付属して建立された「不動堂・千手観音堂・念仏堂・小御堂」から始まります。上皇は信頼する妙法院の僧・昌雲を新日吉社の別当とし、法住寺も末寺として管理下に置きました。
  2. 寿永2年(1183年)11月、木曽義仲の軍勢が院御所を襲撃した法住寺合戦で、南殿に火がかけられましたが、のちに再建。
  3. 鎌倉時代、建久3年(1192年)後白河法皇が崩御。法住寺殿の東側に隣接する法華堂(後白河天皇陵)に葬られました。
  4. その後、法住寺は後白河天皇陵と妙法院歴代門跡法親王のお墓を守り、江戸時代になると妙法院門跡の「院家」とされました。
  5. 明治元年(1868年)明治新政府の神仏分離令により、後白河天皇陵と妙法院歴代門跡法親王のお墓は宮内省所管に移り、寺は「大興徳院」と改称。親鸞作の阿弥陀如来像と自刻影像(蕎麦食い木像)が移されました。
  6. 昭和30年(1955年)寺号を大興徳院より「法住寺」に戻しました。
  7. 平成19年(2007年)本堂にあたる不動堂を建立。
ミィコ

本物の法住寺殿の痕跡は、蓮華王院・三十三間堂の敷地内に法住寺殿址の石碑があるのみです。

【2】身代わり不動尊 伝説

本尊として祀られている「身代わり不動尊像」こと「不動明王像(身代不動明王像)」は、第3代天台座主・慈覚大師(794-864年)による一刀三礼の仏像です。

方除けの御利益があるとして朝廷・民間の信仰を集めるとともに、後白河天皇は守護仏として崇められていたといいます。

法住寺合戦で院御所の南殿を焼失した後、後白河法皇が法住寺を復興されたのも不動明王像の霊験を体験されたからと伝わります。

法住寺 本堂
▲本堂
法住寺 本堂

不動堂(本堂)
平成19年(2007年)建立の不動堂は外壁が特徴的。木で組まれた碁盤の目の中央にクリスタルが埋め込まれ、朝陽と夕陽がさす時間帯になると堂内に光が差し込み輝くように設計されているそうです。

・後白河法皇の身代わりに!?

寿永2年(1183年)11月、木曽義仲の軍勢が院御所を襲撃し南殿に火がかけられました(法住寺合戦)。

その際、当時の天台座主・明雲大僧正が義仲の軍が放った矢で命を落とし、後白河法皇は難を逃れることができました。

法皇は「不動明王が明雲大僧正になり身代りになって助けてくれた」と感激して涙したといいます。

・大石内蔵助も参拝

元禄15年(1702年)12月の赤穂浪士の討ち入りで有名な大石内蔵助(おおいし くらのすけ)が、山科に隠棲中に身代わり不動尊に義挙(正義のために起こす企て)成就を祈願したことでも知られます。

さらには、法住寺が院家であることから宮方を通じて公儀の情勢収集をしたり、同志との連絡・会合の場所にも利用していたといいます。

・御利益

災厄からお守りくださるお不動様として今も信仰されています。

ミィコ

毎月28日の不動縁日は、ご住職による法話もあります。

【3】身代わり不動尊 御朱印

  • 左:本尊「身代わり不動尊」の定番御朱印。
  • 右:不動縁日の御朱印(毎月28日のみ授与)護摩木1本付き
法住寺 御朱印
▲身代わり不動尊 御朱印

不動縁日御朱印(護摩木1本付き)

毎月28日の不動縁日のみに授与される、護摩木1本付きの御朱印。書置きです。

護摩木とは、身代わり不動尊に願いを託すための細長い木です。願い事・お名前・数え年を書いて奉納します。

・定番の御朱印

定番の御朱印は「身代わり不動尊」以外に、「後白河院」「忠臣蔵」など数種類あります。

その他、素敵な墨絵があしらわれている期間限定の御朱印もあります。

ミィコ

不動縁日の御朱印(護摩木1本付き)は500円でした。素敵な墨絵に魅せられて限定御朱印を時々チェックです!

【4】その他の仏像・木像

親鸞作の阿弥陀如来像と自刻影像(蕎麦食い木像)や、後白河法皇 木像、四十七士木像も安置されています。

・親鸞ゆかりの仏像

法住寺は天台宗のお寺ですが、浄土真宗の開祖・親鸞にまつわる阿弥陀如来像と自刻影像(蕎麦食い木像)が、本堂に連なる阿弥陀堂にお祀りされています。

明治元年(1868年)妙法院門跡の思し召しにより、東山渋谷にあった仏光寺から法住寺に移されました。

  • 親鸞作「阿弥陀如来像」
    比叡山で修行中の親鸞が刻んだ阿弥陀如来像。のちに親鸞はこの阿弥陀様を本尊として無量寿院を創立。
    後の江戸時代 天保5年(1834年)浄土真宗の仏光寺 高僧・信暁が、女人禁制の比叡山から阿弥陀様を麓に下げたいと東山渋谷の仏光寺に遷しました。
  • 親鸞作「蕎麦食い木像」
    親鸞が浄土真宗を開くきっかけとなった100日間の六角堂参籠に貢献した像です。比叡山では修行僧は下山禁止なので、親鸞は自分の像を彫って留守番役に置いてこっそり下山。不審に思った師匠が「蕎麦の振る舞いをして確認しよう」と、夜中に全員を起こし蕎麦を出してみたところ、なんと全員分がなくなり嫌疑は晴れました。
    事情を知らずに帰ってきた親鸞は、留守番役の像をの口元に蕎麦がついているのを発見。このエピソードから『そば喰いの木像』と呼ばれるようになったといいます。後に仏光寺に遷されました。

・後白河法皇 木像

平成3年(1991年)800回忌を迎えるにあたり、仏師・江里康彗さんによって再現された後白河法皇御前立ちの像が安置されています。

オリジナルの運慶作と伝わる後白河法皇木像は法住寺陵法華堂に安置されていて、明治以降は宮内庁の管理となり開扉されていません。再現の際、仏師・江里康彗さんは扉が開いた瞬間の印象と、宮内庁所蔵の記録をもとに克明に再現したそうです。

・四十七士木像

大石内蔵助が参拝していたというご縁から、四十七士の木像が祀られています。12月14日に義士会法要も行われます。

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仏像・木像が安置されている堂内は拝観料が必要です。

【5】法住寺 アクセス

三十三間堂の東側です。

・最寄駅から

  • バス停「博物館三十三間堂前」から徒歩約3分。
  • 京阪本線「七条駅」から徒歩約9分。
[地図]
A地点:法住寺
B地点:市バス「博物館三十三間堂前」
C地点:京阪本線「七条駅」

・京都駅から

バス停「博物館三十三間堂前」まで乗車時間約7分。

  • 京都市バス
    ★京都駅前バスターミナルのりば案内
    [D1乗り場]
    市バス100 清水寺祇園・銀閣寺行
    市バス106 祇園行
    市バス110 祇園・平安神宮行
    [D2乗り場]
    市バス206 三十三間堂・清水寺・祇園・百万遍行
    市バス208 博物館・三十三間堂・泉涌寺・東福寺行
  • TAXI 所要時間 約6分
    総距離 約1.7km タクシー料金検索
    ※料金・所要時間は実際とは異なる可能性があります。

・祇園四条から

  • 京阪本線 
    淀屋橋行き乗車「七条駅」下車。乗車時間:約3分。
    ※特急も停車します。
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後白河法皇ゆかりの三十三間堂、新日吉神宮、新熊野神社も近いです。

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※この記事の史実に関する記載は、法住寺公式サイト・パンフレット・駒札、京都大事典、Wikipedia等を参考に作成しました。