世界文化遺産 醍醐寺(だいごじ)は、平安時代に開創した寺院。標高450mの笠取山(醍醐山)全体が寺域で、200万坪以上の広大な境内を有します。
山頂一帯は「上醍醐(かみだいご)」山裾は「下醍醐(しもだいご)」とよばれています。
この記事では、豊臣秀吉が盛大なお花見「醍醐の花見」を催したことでも有名な下醍醐の見どころをご紹介。
※2026年9月現在:上醍醐は登山道で一部がけ崩れの危険があり当面の間入山禁止です。
【1】醍醐寺 由緒と歴史
醍醐寺は真言宗醍醐派の総本山。
平安時代に建立された五重塔や、豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際して設計した三宝院庭園など、日本の歴史・文化を物語る遺構と、膨大な寺宝や古文書を今に受け継いでいます。
・平安時代|聖宝が開創、山全体が寺院に
874年(貞観16年)、聖宝が笠取山山頂(上醍醐)でこんこんと湧き出る泉と出会い、その近くに小さな庵を建て自ら刻んだ准胝観世音菩薩像・如意輪観世音菩薩像を祀りました。それが醍醐寺の始まりです。
その後、上醍醐は多くの修験者の霊場として発展し、907年(延喜7年)には醍醐天皇の勅願寺となり、薬師堂や五大堂が建立されて伽藍が整っていきました。
そして、926年(延長4年)下醍醐に釈迦堂(金堂)が建立されるとともに笠取山全体を寺院にする計画が立てられました。
醍醐天皇の崩御後も朱雀天皇や村上天皇に受け継がれ、949年(天暦3年)法華三昧堂、951年(天暦5年)五重塔(国宝)などが建立されて一山の尊容が整いました。
聖宝 (しょうぼう)[832-909]
平安前期の僧。16歳で東大寺に入り,空海の実弟の真雅を師として出家。860年ころから山林修行に心を傾け,各地の霊山を巡るうち,874年に京都の東南の笠取山頂に道場を開き,それが醍醐寺の起源となった。
権威にへつらわない豪快な僧としての逸話が多く,中世以降,修験道中興の祖として讃仰され,1707年(宝永4)東山天皇の勅によって理源大師の称号が贈られた。出典:株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」より抄録
・鎌倉、室町時代|全盛期→応仁の乱で荒廃
鎌倉時代になると真言宗事相の根本道場としてその権威を高め、南北朝時代には足利尊氏の帰依を一身に集めた第65代 賢俊座主や、室町幕府に重んじられた満済准后などを輩出し全盛期を迎えました。
しかし、応仁の乱 [1467年-1477年]で下醍醐はほぼ全焼。奇跡的に五重塔だけが創建当時のまま残りましたが、膨大な寺領・荘園を失い、しばらく復興にいたりませんでした。
・安土桃山時代|豊臣秀吉「醍醐の花見」で再興
豊臣秀吉が第80代座主 義演准后に帰依。秀吉によって三宝院が再興されるとともに、伽藍の復興も始められ、1598年(慶長3年)には醍醐の花見が盛大に開催。
その後は豊臣秀頼によって伽藍の整備がすすめられ、1600年(慶長5年)金堂(国宝)の移築工事が完成、1605年(慶長10年)に西大門、1606年(慶長11年)に如意輪堂、開山堂、五大堂(現存せず)の再建が次々と行われました。
・江戸時代以降|平成に「世界文化遺産」登録
江戸時代の高演座主は、山伏3千名を伴い二度にわたり大峯山(修験道の聖地)に入峰するなど、修験道を興隆して寺を護りました。
その後、明治新政府の神仏分離令による廃仏毀釈、昭和の農地解放での寺領返還で寺の基盤が大きく揺さぶられますが、受け継がれてきた什宝はすべて伝承されました。
今日、醍醐寺は永世護持のため全山「史跡」に指定され、1994年(平成6年)には「世界文化遺産」に登録されました。

お宝が海外に散逸しなくて良かったです!
【2】名前の由来
醍醐寺の名称は、開祖の聖宝が笠取山の山頂で出会った老人(横尾大明神)が、湧き出る水を飲んで「甘露。甘露。ああ醍醐味(だいごみ)なるかな」と、賞賛した言葉に由来します。
この霊泉は現在も湧き出ていて「醍醐水(だいごのみず)」とよばれています。
・醍醐とは「究極」の意味
その昔、「醍醐」とは涅槃経などに説かれる乳製品の精製過程 [乳→酪→生酥→熟酥→醍醐] が語源の、最後にして最上のもの、最も美味しい味の代名詞でした。
「醍醐味」という言葉も、ここから生まれました。仏教では「悟り」や「究極の真理」にたとえられます。
醍醐味(だいごみ)
1. 仏語。醍醐のあじ。五味のうち、最上のものをいう。
2. 仏語。一乗真実の法。如来の最上の教法。
3. 醍醐のあじのような最上の味わい。美味なものをほめていう語。おいしい食物。
4. ものごとのほんとうのおもしろさ。深い味わい。真髄。
出典:精選版 日本国語大辞典
・醍醐天皇との関係は?
- 874年、聖宝が醍醐寺を開創。
- 897年、醍醐天皇が即位。
そうなんです。「醍醐」という名は、お寺が先なんです。
醍醐天皇は、醍醐寺の開祖である聖宝に深く帰依し、強力な支援者として山上に広大な薬師堂などを次々と建立。自身の「御願寺」とされていました。
そのため、崩御後に「醍醐天皇」と送り名がつけられたのです。当時、天皇が亡くなると、ゆかりの深い地名や、寺院の名前を贈ることが定番でした。
第60代 醍醐天皇 [885-930/在位897-930]
醍醐天皇は宇多天皇の第一皇子として生まれ、臣籍降下して源氏を名乗ったのち、再び皇族に戻られました。即位前の名前(諱)は、源維城(みなもとのこれざね)、親王宣下を受けてからは敦仁(あつぎみ / あつひと)。
藤原時平と菅原道真を左右大臣とする天皇親政は、後世「延喜の治」と呼ばれ、公家の理想時代とされました。
930年に崩御されると、笠取山に御陵 [醍醐天皇 後山科陵]が築かれました。

醍醐とは最上・真髄を意味する最高の褒め言葉なんですね!
【3】下醍醐の見どころ
下醍醐の拝観は、三宝院、伽藍、霊宝館の三つのエリアに分かれています。
通常、1カ所、2カ所、3カ所のチケットが用意されています。
桜の名所なので、春季は少し高めの料金設定です^^
五重塔以外の下醍醐の伽藍は、慶長年間に豊臣秀吉・秀頼によって復興されました。
・三宝院
三宝院は醍醐寺の本坊的な存在の塔頭。1115年(永久3年)、第14世座主・勝覚僧正により創建されました。
応仁・文明の乱 [1467-1477] で大きな被害を受け荒廃しますが、1598年(慶長3年)豊臣秀吉の「醍醐の花見」を契機に秀吉・秀頼が醍醐寺を復興しました。
現在の三宝院は建造物の大半が重文に指定されています。中でも庭園全体を見渡せる表書院は寝殿造りの様式を伝える桃山時代を代表する建造物として国宝に指定されています。
国の特別史跡・特別名勝となっている三宝院庭園は、豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際して自ら縄張りし基本設計をした庭です。

勅使門(唐門)は1599年(慶長4年)建立。2010年(平成22年)に建築当時の姿に復元されました。黒の漆塗りに金箔を施された大きな菊と桐の紋が豪華です。

三宝院 表書院の襖絵は、桃山時代を代表する長谷川等伯一派の作と伝えられ、重要文化財に指定されています。

亀島は樹齢500年以上といわれる五葉松が亀の甲羅のように島を覆っています。西側(右)は鶴島。鶴島の五葉松は枯れた後、新しい木に植え替えられたそうです。

表書院の奥に位置する「純浄観」「本堂」「奥宸殿」は特別拝観になります。表書院からも庭園は見えますが、純浄観からの眺めも素晴らしいです^^
わかりにくいですが、池の向こう側左手奥に「藤戸石」があります。
藤戸石は「天下を治める者が所有する石」「天下の名石」として室町時代から歴代の権力者によって引き継がれてきました。
- 岡山から京都へ:岡山県倉敷市藤戸の海中にあった巨岩。源平合戦の勝利にあやかる「勝利石」として珍重され、京都の細川頼之の邸宅へ運ばれました。
- 織田信長:足利義昭のために築いた二条御所の庭に運び込ませました。信長自らが指揮を執り、石を錦で包んで賑やかに運ばせたと記録されています。
- 豊臣秀吉:天下人となった豊臣秀吉が自身の邸宅「聚楽第」へ移した後、「醍醐の花見」をきっかけに、自ら設計した醍醐寺三宝院の庭園に設置し現在に至ります。

・五重塔、金堂などの伽藍
総門を入ると、桜並木の馬場が西大門(仁王門)まで続いています。桜の花の季節はさぞかし華やかでしょう^^ 拝観受付は、仁王門を入った所にあります。

西大門(仁王門)
豊臣秀頼が1605年(慶長10年)に再建。
安置されている仁王像(重要文化財)は、平安後期の1134年(長承3年)に仏師勢増・仁増の作で、もとは南大門に祀られていた尊像です。体内の墨書や納札等に、南大門から移された経緯が記されています。

金堂(国宝)
金堂は醍醐寺の本堂。お祀りされている薬師三尊像(本尊:薬師如来、脇侍:日光菩薩・月光菩薩)は鎌倉時代の作で、いずれも重要文化財に指定されています。
現在の金堂は豊臣秀吉の命により紀州(和歌山県)湯浅から移築されたもので、秀頼の時代1600年(慶長5年)に完成。主要部分に平安末期の様式が残されている建物です。
もともとの本堂は、醍醐天皇の御願により926年(延長4年)に創建され、当時は釈迦堂とよばれていましたが、永仁、文明年間に二度焼失しました。
毎年2月23日には「五大力さん」として親しまれる「五大力尊仁王会」の法要が賑やかに営まれます。五大明王(不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王)の力を授かり、その化身・五大力菩薩によって国の平和や国民の幸福を願う行事です。

五重塔(国宝)
五重塔は、醍醐天皇のご冥福を祈るために第一皇子・朱雀天皇が936年(承平6年)に起工、第二皇子・村上天皇の時代951年(天暦5年)に完成しました。
高さ約38m、屋根の上の相輪は約13m。京都府下で最も古い木造建築物となっています。内部には、日本密教絵画の源流をなすといわれる両界曼荼羅や真言八祖などの壁画が描かれているそうです。
世界最古の木造建築物は、奈良県斑鳩町にある法隆寺の金堂、五重塔などです。607年に聖徳太子と推古天皇によって建てられたと伝わります。

清瀧宮本殿(重要文化財)
醍醐寺の総鎮守清瀧権現(せいりゅうごんげん)を祀る鎮守社。1097年(永長2年)に、上醍醐より分身を移し祀られましたが文明の兵火により焼失。
現在の社殿は1517年(永正14年)の再建で、1599年(慶長4年)第80代座主 義演により拝殿の整備が施されました。毎年4月1日から21日まで『清瀧権現桜会(さくらえ)』として様々な法要が行われます。

Photo by 663highland, via Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
不動堂・護摩道場
不動明王の石像が印象的な不動堂。堂内には不動明王と五体の明王が奉安されています。また、堂前の護摩道場では、修験道の柴燈護摩を焚き様々な祈願が行われます。

観音堂
西国三十三観音霊場第十一番札所。宝形造(ほうぎょうづくり)の建物です。
ご本尊は准胝観世音菩薩(じゅんていかんぜおんぼさつ)。子授けの観音様として信仰を集めています。毎年5月18日を中心とした1週間、ご本尊のご開帳が行われます。
もともとは上醍醐の准胝堂に祀られていましたが、2008年の落雷による焼失以降は観音堂に遷座され、ここで御朱印の受付や法要が行われています。

弁天堂
堂内には、音楽などの学芸や知識の女神として広く知られる弁才天が祀られています。
朱塗りの弁天堂と橋が池に映る姿が美しいです。紅葉の名所となっています。

その他、下伽藍には真如三昧耶堂、祖師堂、観音堂、弁天堂、報恩院など多くの堂宇が点在しています。
・醍醐寺 霊宝館
醍醐寺の貴重な寺宝の保存と公開を兼ねた施設です。春と秋に特別展があります。
霊宝館で管理保管されている彫刻・絵画・工芸・古文書などの寺宝は、国宝や重文だけで7万5千点以上、未指定の文化財を含めると約10万点以上。
1935年(昭和10年)に開館し、その後も収蔵庫3棟を新築。2001年(平成13年)には上醍醐薬師堂の本尊である国宝・薬師三尊像を中央に安置する大展示室を増築。上醍醐五大堂に安置されていた重文「木造五大明王像」も霊宝館に遷座されています。
現在、諸堂にお祀りされている諸尊以外のほとんどの寺宝は「霊宝館」に安置され、順次公開されているそうです。

下醍醐、伽藍エリアは広いです。上醍醐と両方参拝するのは、かなり体力がいりますね。
【4】醍醐寺 アクセス
最寄り駅は地下鉄東西線の「醍醐駅」。総門まで徒歩約14分。
最寄りバス停は、京阪バス「醍醐寺前」。総門まで徒歩約1分。
・京都駅 から
- 京阪バス
八条口 [H4のりば] ホテル京阪前(京都醍醐寺ライン乗り場)
所要時間:約30分。※バスは1時間に1~2本程度 - JR奈良線 奈良・城陽行に乗車「JR六地蔵駅」乗り換え→京阪バス 22・22A系統「醍醐寺前」下車。
所要時間:約30~40分。※バスは1時間に2本程度です。 - TAXI 所要時間 約21分
総距離 約9km タクシー料金検索
※料金・所要時間は実際とは異なる可能性があります。
・三条京阪から
- 地下鉄東西線 六地蔵行に乗車「醍醐駅」まで約19分。下車、徒歩約14分。
所要時間:約34分 - 京阪本線 淀屋橋行に乗車「中書島駅」乗り換え→宇治線「六地蔵駅」乗り換え→京阪バス 22・22A系統「醍醐寺前」下車。
所要時間:約40分~
※バスは1時間に2本程度です。 - TAXI 所要時間 約27分
総距離 約8.8km タクシー料金検索
※料金・所要時間は実際とは異なる可能性があります。

上醍醐は、入山禁止が解除されたら行こうと思います!
関連記事です!
※この記事の史実に関する記載は、醍醐寺公式サイト、醍醐寺パンフレット、駒札、Wikipedia等を参考に作成しました。




















醍醐寺 [下醍醐]
所在地 京都市伏見区醍醐東大路町22
TEL.075-571-0002
醍醐寺公式サイト
通常期 拝観料金(三宝院・伽藍・霊宝館)
・1カ所 拝観券 大人 600円、中高生 400円
・2カ所 拝観券 大人 1,000円、中高生 700円
・3カ所 拝観券 大人 1,500円、中高生 1,000円
※三宝院御殿特別拝観 大人・中高生 500円
春季 拝観料金 3月20日~4月第3日曜日まで
・1カ所 拝観券 大人 800円、中高生 600円
・3カ所 拝観券 大人 1,800円、中高生 1,300円
拝観時間 9:00〜17:00
※冬期 12月第1日曜日の翌日〜2月末日:9:00〜16:30