桓武天皇 柏原陵 | 平安京に遷都をした天皇の陵墓

桓武天皇陵

実は、桓武天皇 柏原陵(かんむてんのう かしわばらのみささぎ)の正式な場所は不明です。現在の陵墓は考証の結果、明治時代に治定されたものです。

伏見山中にあって、仁徳陵より広大だったと記録に残りますが、鎌倉時代から室町時代の動乱期に所在不明になりました。

その後、豊臣秀吉がこの一帯に伏見城を築城したことで、もっとわからなくなったのです。

現在地以外にも陵墓参考地があり、今後の調査で真実がわかる日が来るかもしれません!? 明治天皇陵と両方訪ねるお薦めルートもご紹介します。

基本情報

桓武天皇 柏原陵(かしわばらのみささぎ)
所在地 京都市伏見区桃山町永井久太郎

管理 桃山陵墓監区事務所(伏見桃山陵の横)
TEL. 075-601-1863(8:30~17:00)
宮内庁 公式サイト(桓武天皇 柏原陵 紹介ページ)

【1】桓武天皇とは

桓武天皇は第50代天皇。
延暦13年(794年)京都に計画都市 「平安京」を建都したことで知られます。

・平安京を建都

語呂合わせ「鳴くよ(794)ウグイス平安京」が有名ですよね。

平安遷都以外にも、蝦夷征討、最澄・空海の登用による平安仏教の確立、地方政治振興など内政面でも業績が多く、歴代天皇の中でもまれに見る積極的な親政を実施しました。

桓武天皇
天平9年(737年)生~大同1年(806年)没
第50代の天皇(在位 781年~806年)。光仁天皇の第1皇子であったが,母が渡来人の出の高野新笠だったため皇太子となれなかった。皇太子の他戸親王(おさべしんのう)が廃されて,皇位についたときはすでに 45歳であった。

奈良時代の仏教政治の弊を除くため,僧の不法を取り締まり,最澄や空海を起用して新仏教を興させた。律令政治に改良を加えてその実行を励まし,ことに地方政治に意を注ぎ,また延暦13年(794年)平安京を開き,奥羽の蝦夷平定のため坂上田村麻呂を将軍として 3回遠征させた。在位 24年11ヵ月。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より抄録
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▲桓武天皇像(延暦寺蔵), パブリック・ドメイン, Link

・没後も崇敬

桓武天皇が亡くなった後も、陵墓は『延喜式』に記された永世不除の近陵として朝廷の篤い崇敬を集めました。陵墓に荷前使や告陵使が派遣された記録は枚挙にいとまがありません。

当時の桓武天皇 柏原陵は、仁徳陵の兆域「東西八町、南北八町」よりはるかに大きい広大な兆域「東西11町(1200m)、南北11町、東北に2つの峰、谷」をもつ陵墓だったと伝わります。
※兆域:墓のある区域のこと。

桓武天皇陵の規模
柏原陵 平安宮御宇桓武天皇、在山城国紀伊郡、兆域東八町、西三町、南五町、北六町、加丑寅角二岑一谷、守戸五烟」

出典: 927年『延喜式』諸陵寮(朝廷が管理する山陵諸墓に関する記述)

荷前(のさき)
平安時代、諸国から貢ぎ物として奉られた初物。これを伊勢神宮をはじめ諸陵墓に奉った。

出典:デジタル大辞林

告陵使(こくりょうし)
朝廷の大礼や国家的大事などの際、その旨を山陵に報告する勅使。

出典:三省堂大辞林
ミィコ

陵墓の正確な場所はわかりませんが、明治28年には平安遷都1100年を記念して、桓武天皇をご祭神とする平安神宮が創建されました。

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【2】桓武天皇陵の謎

崇敬を集めていた桓武天皇の陵墓も、鎌倉時代~室町時代の動乱期に所在がわからなくなってしまいます‥

その上、後の豊臣秀吉の伏見城築城により、この地域は完全に破壊され、さらに不明になりました。

稲荷山の南、伏見山中にあったという事は様々な記録に残されていますが、現在治定されている柏原陵以外にも陵墓参考地があるのが現状です。

桓武天皇陵 参道
▲桓武天皇陵 参道

・伏見山中に葬られた理由

桓武天皇は生前、平安京の南側「深草山(※伏見の地名) 」に陵墓を希望されてていたため、本人の希望通りに埋葬されたと考えられます。

しかし最終決定までには紆余曲折がありました。

没後、皇太子(後の平城天皇)は平城京にならって都の北側「宇多野」に陵墓を定めようとしたのです。しかし、地元勢力の強い反対があり結局断念。

改めて「深草山」に埋葬されたのです。

在世中に宇多野(うたの)への埋葬を希望したとされるが、不審な事件が相次ぎ卜占によって賀茂神社の祟りであるとする結果が出され、改めて伏見の地が選ばれ、柏原陵が営まれた。

田中邦和* によれば、桓武天皇は生前に埋葬を希望したのは宇多野ではなく深草山であり(『日本紀略』延暦11年8月4日条)、平城京にならって都の北側に陵墓を築こうとしたのは皇太子(後の平城天皇)の意向であったとする。

ところが、宇多野は賀茂神社を祀る賀茂氏などの在地勢力の勢力圏に近いために彼らの反発を招き、それが宇多野への埋葬断念につながったとされている(山田邦和「平安時代前期の陵墓選地」『仁明朝史の研究 承和転換期とその周辺』古代學協會編、角田文衞監修、思文閣出版、2011年2月。)

*山田邦和(考古学・都市史学研究者、同志社女子大学教授、博士(文化史学))

出典:Wikipedia より抄録
桓武天皇陵
▲桓武天皇陵 柏原陵
桓武天皇陵石碑

・桓武天皇陵の歴史

  1. 平安時代、806年4月に桓武天皇が亡くなり、紀伊郡の柏原山陵に葬られ(日本後記)、 10月に柏原陵に改葬(類聚国史)。
  2. 1120年、公卿・中御門(藤原)宗忠が山稜を訪ねた。深草の南より東に入る。稲荷山の南、伏見山中にあったという。(中右記)
  3. 1274年、陵墓が盗掘される。(仁部記)
  4. 鎌倉時代~室町時代、陵墓の場所は不明になる。
  5. 1594年、豊臣秀吉による伏見城築城が始まり陵墓の所在がわからないまま破壊されたともいわれる。
  6. 1688年~1704年に陵所探索が行われたが、定説を得るに至らなかった。
  7. 1854年~1860年頃、学者・谷森善臣(平種松)が調査し、現在の伏見区桃山町永井久太郎を墓陵とした。
  8. 明治時代、1880年、谷森の調査に基づき、現在の柏原陵が桓武天皇陵に治定された。

柏原陵(かしわばらのみささぎ)
京都市伏見区桃山町永井久太郎にあり、陵形は扁平な円丘で周囲は方形に区画されている。
『日本後紀』によると、陵所ははじめ山城国葛野郡宇多野の地に定められたが、災異が相ついだのでその地をさけ、大同元年(806年)4月7日同国紀伊郡の柏原山陵に葬ったが、『類聚国史』によると、さらにこの年10月11日に柏原陵に改葬した。
『延喜式』諸陵寮の制は「兆域東八町、西三町、南五町、北六町、加丑寅角二岑一谷、守戸五烟」とあって、広大な陵域を占め、永世不除の近陵として歴朝の厚く崇敬するところであった。
『仁部記』によると、文永11年(1274年)陵が賊に発かれた際に、使を遣わしてその状況を検分せしめたが、そのときの報告書に「抑件山陵登十許丈、壇廻八十余丈」とあって、その規模を窺うことができる。しかし、のち所伝を失い、豊臣秀吉の伏見城築造の際にその郭内に入ったため陵址はさらに不明となった。
元禄年間(1688~1704年)以降、山陵の研究家は陵所の探索につとめ、深草・伏見の間に陵所を求めて種々なる説が行われたが、幕末の修陵の際にもついに定説を得るに至らなかった。明治13年(1880年)に谷森善臣の考証にもとづいて現陵を陵所と定め、修治を加えた。
[参考文献]
戸田通元『柏原山陵考略』、津久井清影『柏原聖蹟考』、谷森善臣『柏原山陵考』、上野竹次郎『山陵』上(戸原 純一)

出典:国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典
ミィコ

GPSのない時代、山全体が敷地だと広すぎて、陵墓の場所がわからなくなっても仕方ないですね

【4】桓武天皇陵 アクセス

最寄り駅

  • 京阪本線「丹波橋駅」
    ※北改札口 1番出口 (伏見桃山城・伏見北堀公園方面)から、徒歩約14分。
  • 近鉄京都線「近鉄丹波橋駅」
    ※東出口(伏見桃山城方面)から、徒歩約14分。

・祇園四条駅から

  • 京阪本線 淀屋橋行 特急に乗車。「丹波橋駅」まで約10分。

・京都駅から

  • 近鉄京都線 すべての列車が停車。「近鉄丹波橋駅」まで約8~11分。
  • JR奈良線「桃山駅」まで約12分。徒歩約14分。
    ※桓武天皇陵の表参道は通らずに、明治天皇陵の表参道の途中で左折します。

[地図]
A地点:丹波橋駅
B地点:桓武天皇陵

道順写真

桓武天皇陵 参道入口
▲桓武天皇陵の参道入口
桓武天皇陵参道
▲参道を直進します
桓武天皇陵 柏原陵サイン
▲桓武天皇 柏原陵の看板
桓武天皇陵 入口付近
▲左奥に桓武天皇 柏原陵があります。
ミィコ

京都駅からは、地下鉄を使って行く方法もありますが、乗り換えが面倒なので却下しました^^

【4】桓武天皇陵&明治天皇陵ルート

宮内庁が管理されている、気持ちのいい森の中の参道を歩きます。

・丹波橋駅→ 伏見桃山駅

桓武天皇陵と明治天皇陵(伏見桃山陵)を参拝するルートのご紹介。石段を登りたくない方は、緑ラインを往復すればOK。散策の参考にしてください。※所要時間:約60~80分

途中には、伏見桃山城・御香宮神社・乃木神社があります。

  • 「丹波橋駅」→ ピンクライン・桓武天皇陵 参拝→(桓武天皇陵 道標)→ 青ライン・石段を登って→ 伏見桃山陵 参拝→ 緑ライン→(桓武天皇陵 道標)→ 青ライン→「桃山御陵前駅」
桓武天皇陵 MAP01
▲桓武天皇陵&明治天皇陵ルート 1

・桃山南口駅→ 丹波橋駅

宇治方面から京都市内へ戻る際に、伏見桃山陵と桓武天皇陵を経由するルートです。※所要時間:約40~50分

途中には伏見桃山城があります。

  • 京阪宇治線「桃山南口駅」→ 青ライン・石段を登って→ 伏見桃山陵 参拝→ (桓武天皇陵 道標)→ ピンクライン・桓武天皇陵 参拝→「丹波橋駅」
桓武天皇陵 MAP02
▲桓武天皇陵&明治天皇陵ルート 2
ミィコ

御陵の参道は、気持ちのいい散歩&ジョギングコースという感じです。

【5】近くの名所旧跡

伏見城跡地に造営された明治天皇陵、明治天皇を崇敬し殉死した乃木将軍を祀る乃木神社。伏見城をイメージした模擬天守 伏見桃山城があります。

・伏見桃山陵(明治天皇陵)

第122代 明治天皇の陵墓です。かつて豊臣秀吉が築城した伏見城の本丸があった場所に作られました。

明治天皇陵の前から見渡す風景も素晴らしいです!

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・京都 乃木神社

明治天皇を崇敬し殉死した軍人で教育者・乃木希典をお祀りする神社。

文武両道・勝運の神様として受験合格・必勝祈願で人気です。

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・伏見桃山城

伏見城をイメージした模擬天守「伏見桃山城」のある公園がすぐ近くにあります。

天守の中には入れませんが、立ち寄るのもいいかもしれません。

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ミィコ

せっかくなので、桓武天皇陵は、明治天皇陵とセットで訪ねるのがおすすめです^^

※この記事の史実に関する記載は、京都伏見歴史紀行、Wikipedia等を参考に作成しました。