因幡堂 [平等寺] | 因幡薬師は、がん封じ・病気平癒の信仰を集めるお寺

因幡堂 平等寺

因幡堂は平安時代から霊験あらたかな縁起で知られ、御本尊の薬師如来像(重文:通常非公開)は病気平癒・がん封じのご利益で歴代天皇から庶民まで多くの人々の信仰を集めてきました。

正式名称「平等寺」は、承安元年(1171年)に高倉天皇が命名。一般的には「因幡堂」「因幡薬師」の愛称で呼ばれています。

参拝した後は、お守りも拝受して病気平癒・がん封じのご利益を身につけたいですね。お守りは可愛い猫や小鳥のイラスト入りから正統派まで色々あるので、お気に入りを探しましょう^^

この記事では、因幡堂の縁起や薬師如来についてご紹介します。

基本情報

因幡堂(正式名称:福聚山 平等寺)
所在地 京都市下京区因幡堂町728
TEL. 075-351-7724
拝観時間 6:00~17:00
拝観料 無料(境内自由)
ご祈祷・納経の受付 9:00~16:00
因幡堂 公式サイト
・京都十二薬師霊場 第1番
・京都十三仏霊場 第7番

【1】因幡堂(平等寺)とは?

因幡堂は長保5年(1003年)橘 行平(たちばなの ゆきひら)が建立した堂です。

創建の由来は『因幡堂縁起』(『山城名勝志』所収)、『因幡堂縁起絵巻』(東京国立博物館蔵)などに記されています。

因幡堂縁起に記された霊験譚は平安京の人々に広く親しまれ、第66代一条天皇(在位986-1011)のお耳にも入り皇室の勅願所となりました。

橘 行平(生没年不詳)
平安時代中期の貴族。官位は従四位上・因幡守(現・鳥取県東部)。

因幡堂 平等寺 本堂
▲因幡堂 本堂

・因幡堂縁起

  1. 天徳3年(959年)橘 行平は、因幡国司としての任を終えて京に帰ろうとしていたところ、急病になり平癒を祈願していました。ある夜、夢に僧が現れこう告げました。「因幡国賀留津の海中に尊い浮き木がある。その浮き木は衆生済度(人々を救って悟りを得させるため)に遠くの仏の国からやってきた。速やかにこの浮き木を引き上げて供養しなさい。そうすれば必ず病気は治り、さらに一切のあらゆる願いが成就するだろう」
  2. さっそく漁師に命じて波間に光るものを引き上げると、それは等身(165cm)の薬師如来像でした。信心した行平は草堂を建て薬師如来像を祀ったところ病も平癒。行平は薬師像をいずれ京に迎えると約束して因幡を後にしましたが、その後、因幡を訪れる機会がないうちに長い歳月が過ぎました。
    ※草堂は因幡の薬師寺(現在:座光寺)となり薬師像は本尊として安置されました。
  3. 長保5年(1003年)4月8日黎明、行平に僧からの夢告がありました。「我は西の天より来て、東の国の人々を救おうとやってきた。あなたには宿縁(前世からの因縁)があるから重ねて事を示す」 と。ちょうどその時、屋敷の西門に来客があり行平が「どなたですか」と問うと「因州の僧だ」との返答。驚いて門を開けたところ、あの薬師如来の尊像が立っておられたのです。
  4. 行平は屋敷の一部を改造して尊像を安置するお堂を作り、因幡堂と名付けました。

座光寺(中国四十九薬師霊場 第45番札所)
寛弘年間 (1004~1012)、本尊の薬師如来像が京都に移動した後、因幡の薬師寺では残った台座と光背をもって座光寺と改称。後の天明6年(1786年)農民一揆で堂宇は焼け、光背を焼失しましたが台座だけは難を免れました。現堂宇は再建。

・因幡堂の歩み

因幡堂の縁起となった霊験談やご利益によって、歴代天皇から町衆まで大勢の人々に支持され、度重なる堂の焼失を乗り越えて現在まで信仰され続けています。

  1. 第66代一条天皇(在位986-1011)は、8支院を建立し勅願所にしました。以後、歴代天皇の即位ごとにご祈祷、勅使の御月参り「薬師もうで」も行われました。
  2. 1097年、1103年、1108年、1143年、1153年、1159年、焼失。
  3. 1171年、第80代高倉天皇の勅命により「平等寺」と命名され勅額を贈られました。
  4. 1177年、1246年、1249年、1391年、1434年、1864年(蛤御門の変)、焼失。
  5. 1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により荒廃。1886年再建。 
▲都名所図会 6巻2 天明6年(1786年)発行 国立国会図書館

・町衆の信仰を集めた町堂

町堂(ちょうどう)とは、町衆の信仰を背景に生活文化や自治活動の中心となった場所です。

因幡堂(平等寺)は、貴族の持仏堂であるとともに町衆の信仰を集めた町堂の代表格で、芸能・娯楽にも深い縁がありました。

狂言にも「因幡堂」「鬼瓦」「仏師」「六地蔵」「金津(金津地蔵)」などの演目が残り、室町時代は猿楽狂言を何度も上演。江戸時代には因幡堂芝居と呼ばれる歌舞伎興行が行われ賑わいました。

平安京遷都[794年]の際、桓武天皇は南都の寺院勢力を排除するため、平安京内には官寺である東寺・西寺以外の寺院建立は禁止していました。
しかし後にルールが緩和され、貴族の持仏堂や、霊験あらたかな小堂の建立は認められました。因幡堂(平等寺)の他に、六角堂(頂法寺)、革堂(行願寺)が有名です。

ミィコ

戦後、急速に失われた賑わいを少しでも取り戻すべく2001年から「因幡薬師手作り市」が開催されています。

【2】薬師如来とは?

「薬師如来」は、東方浄瑠璃世界(瑠璃光浄土)の教主。

西方極楽浄土の教主・阿弥陀如来が安らかな死後の世界を与えてくれるのに対して、現世の願いを叶えてくれる仏様です。

薬師如来像は左手に薬壺(やっこ)を持ったお姿であることが多く、病気やケガなどの痛みや苦しみから私たちを救い、身心の健康を守ってくださる現世利益の仏様として、日本中に信仰が広まりました。

薬師如来(やくしにょらい)
東方浄瑠璃世界の教主。12の大願を立てて、人々の病患を救うとともに悟りに導くことを誓った仏。古来、医薬の仏として信仰される。像は通例、右手に施無畏印を結び、左手に薬壺を持つ。脇侍に日光菩薩と月光菩薩、眷属として十二神将が配される。薬師瑠璃光如来。薬師仏。

出典:小学館 デジタル大辞泉

・日本三如来のひとつ

日本三如来

  • 嵯峨清涼寺(京都)釈迦如来像
  • 因幡堂(京都)薬師如来像
  • 善光寺(信濃)阿弥陀如来像

釈迦・薬師・阿彌陀の三つの如来。
特に天竺(インド)伝来の、京都嵯峨清涼寺の釈迦如来像、京都因幡堂の薬師如来像、信濃善光寺の阿彌陀如来像をさしていう。

出典:精選版 日本国語大辞典

・薬師如来立像(重要文化財)

因幡堂の木造薬師如来立像は、中世より度重なる火災の被害に遭いながらも、そのつど町衆の力によって難を逃れてきた御本尊です。※通常非公開

※避難用頭巾を被られた因幡薬師像お姿の写真:公式サイト

薬師如来立像の厨子には車輪が付けられていて、緊急時に簡単に持ち出せる様になっているそうです。頭に避難用の頭巾を被っておられる事でも有名です。

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ご本尊の他にも鎌倉期の秀作といわれる仏像、釈迦如来立像、如意輪観音坐像が安置されています。いずれも重要文化財・通常非公開

【4】がん封じの御利益

昔から病気平癒・子授け・安産の御利益で信仰されてきましたが、近年は“がん封じ”のご利益を求めてお参りに来られる方が多いそうです。

医療が現在ほど発達していなかった時代、さまざまな病気を患った人々、中でも不治の病として恐れられた癌(がん)患者が最後に因幡薬師にすがったことから、”がん封じの薬師如来”として今に伝わっているのです。

毎月8日には薬師護摩を焚き、癌封じの祈願をされています。

因幡薬師
▲因幡薬師 石碑
因幡堂 平等寺
▲本堂の右手にある手水鉢

・御利益

古くより、子授け、がん封じの薬師如来として知られてきました。

  • がん封じ
  • 病気平癒
  • 子授け・安産

・お守り

お守りは、猫・小鳥をモチーフにした可愛いものから、正統派の渋いデザインのものまで、色々なタイプが取り揃えてあり選ぶのも楽しいです。

特に猫好き、鳥好きの方は思わず笑顔になるのでは^^ 闘病中の方へのお見舞いの品としても良いですね!

ミィコ

お守りの種類が多くて、どれにしようか迷います^^

【5】アクセス方法

地下鉄「五条駅」からがおすすめ。
場所は烏丸四条と烏丸五条の中間くらいです。

・最寄り駅から

・地下鉄「五条駅」1番出口より 徒歩5分
・地下鉄「四条駅」5番出口より 徒歩5分
・阪急京都線「烏丸駅」より 徒歩5分

・京都駅から

・地下鉄烏丸線 国際会館行「五条駅」まで約1分。1番出口より 徒歩5分
・市バス「烏丸松原」よりすぐ

ミィコ

平日もお参りの方々で賑わっていました。昔はかなり大きなお寺だったようですが、今はギュッと凝縮されています。

※この記事の史実に関する記載は、因幡堂公式サイト、駒札などを参考に作成しました。